■学会にて(京大数理解析研,その222)

糸健太郎先生(中部大)ご自身は双曲空間のビリヤード問題を取り上げられた。ここでは双曲空間ではなく、ユークリッド空間のビリヤード問題を解説する。

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【3】カオティックなビリヤード(非可積分系)

 ぶつかるごとに運動量の向きが様々に変化するようなビリヤード系では,軌道の種類は非常に豊富になり,粒子の振る舞いは初期状態に鋭敏に依存し確率的になる.

 非線形な力学系では初期状態に含まれるわずかの誤差が系の未来をがらりと変えることがある.リオデジャネイロで一匹の蝶が羽ばたいたため,数週間後にテキサスで大竜巻が起こることさえあり得るのである(バタフライ効果).このように決定論的法則に従う運動で初期状態に対する鋭敏な依存性をもつものをカオスという.

 カオスは一見秩序的な振る舞いをしない予測不可能な振る舞いをするランダム現象のようであるが,実は決定論的な方程式によって記述されていて,その解は初期値により完全に決定されているものである.言い換えれば,複数の相互作用をもっているために非常に複雑でいかなる予測も許さない無秩序に見える現象で,ランダムネスを真似た決定論的システムであるがゆえに予測不可能なものと言い換えてもよい現象なのである.

 例をあげると,正三角形のビリヤード系は可積分系であるのに対し,3つの円弧で囲まれたビリヤード系はカオス系であることが示されている.また,長方形や円型ビリヤードは可積分系であるが,長方形を1対の半円ではさんだスタジアム・ビリヤードも単なる円や長方形内での規則運動とは異なってカオス運動を示す.円の一部を直線に置き換えた形,長方形の各辺を円弧状にした形,正方形の外壁と円形の内壁に挟まれた形などもカオス系となる.

 カオスには周期性がないので不規則なパターンしか現れないが,

  1)ビリヤード内の波動関数を描くと周期軌道の痕跡をもつこと,

  2)エネルギー準位の最近接間隔分布がランダム行列理論の示唆するウィグナー分布に従うこと

はよく知られている.壁の曲率の変化に対応して各エネルギー固有値も変化するが,にもかかわらず最近接間隔分布はすべてウィグナー分布でよく近似できるというわけである.

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 ここで誤解してならないのはカオス系であっても周期軌道は存在することである.しかもカオスの海の中に埋もれた周期軌道の数は周期が長くなると指数関数的に増える.

 そして,量子カオスの理論はIBM研究所のグッツヴィラーによって導かれてた跡公式を基礎として発展している.グッツヴィラーの跡公式は古典系のすべての周期軌道を用いれば非可積分系の固有エネルギーを予測できるという周期軌道理論の公式である.

 リーマン・ゼータ関数の零点の最近接間隔分布がランダム行列のGUEの間隔分布と一致するという事実はすでにコラム「ゼータ関数の零点分布と量子カオス」のなかで紹介したが,グッツヴィラーによるこの周期軌道数の分布則もリーマン・ゼータ関数の零点密度とそっくりな形をしているなど,量子カオスの問題は跡公式(trace formula)を媒介として数論の問題にも転化するのである.

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