■研究者の責任(その10)
さらに抜けていた点を補充.氏の許可を得て転載する.
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[1]チッソが水俣でアセトアルデヒド製造を開始したのは,1932年5月7日です.VogtとNieuwland が有機水銀の副生がある事を指摘したころ,日本には工業化学雑誌という雑誌がありました.その1922年第25巻980頁にVogt とNieuwland の1920年の論文が抄訳の形で紹介されています.なおこの紹介者の越智と小野寺は,この工業科学雑誌23巻938頁にアセチレンからアセトアルデヒドを合成する際に有機水銀化合物ができる可能性を論じています.この工業科学雑誌(当該号を含む)は1922年に熊本大学図書館に収蔵されています.けれども誰も注目しませんでした.当時,他に東京化学会雑誌という雑誌があり,これにも同趣旨の記事があるそうですが,確認していません.
[2]Nieuwland はVogt と共著の論文を出す前に,Magnireとの連名で,JACS 1906;28:1025―1031に速報的内容の論文をだし,有機水銀化合物の副生を説明しています.驚くのは,東京化学会誌(日本化学会誌の前身)の1906年(27巻,1232―1233)にこの論文の抄録が「アセチレンの酸性銀及び水銀溶液に対する作用」との表題で紹介されていることです.当時の通信事情を考えると,極めて早いと思います.それだけアセトアルデヒド合成に関する関心がたかかったのではないかと思われます.この雑誌も1932年の時点では既に国内で収蔵されていました(東京高等工業,後の東京工大).しかし,これも無視されました.
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