■SPLAG(その11)
1960年代になると,カッツは「ドラムの形は聴き分けられるか?」
M. Kac, Can one hear the shape of a drum?, Amer. Math. Monthly, 73(1966),1-23
という論文を発表しました.カッツの問題とは,漸近挙動
Nd(λ) 〜 cdVdλ^(d/2)
をもっと詳しく調べれば,太鼓の形についての幾何学的情報がすべて得られないだろうか?という問いかけです.
カッツが提出した等スペクトル問題は,数学論文としてはめずらしく魅力的なタイトルがものをいって,大きな注目を集めこの問題を解こうという研究を大きく促すきっかけとなりました.等スペクトル問題は逆問題の特殊な例になっていて,この論文のタイトルが逆問題の有名な標語(スローガン)になったというわけです.
カッツの論文により「太鼓の音から,その面積,周の長さ,穴の数が聴きとれる」ことが示されたのですが,これらの成果にもかかわらず,境界の形が円であるのか楕円であるのか,四角形か多角形かなのか,面の正確な形が推測できるかというさらに一般的な疑問には答えられませんでした.これが,マッキーンやシンガーなどの人々を触発し,その後の研究が展開する契機となりました.
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【1】ミルナーの反例
数学者は1次元・2次元・3次元という一般的な空間だけにとらわれません.無限次元さえ考えるのですが,1964年,ミルナーはカッツの問題に対する反例を最初に見つけました.すなわち,幾何学的には異なるけれども同じ音を出す16次元のドラムのペアを発見したのです.
「R^16のなかには形の異なる2つの偶ユニモジュラ格子E8+E8,D16+がある.この2つの格子から構成されるトーラスR^16/E8+E8,R^16/D16+は同じテータ関数をもつ(=等スペクトル)である.」
(証)16次元ダイアモンド格子D16+のテータ関数は
1/2(θ2^16+θ3^16+θ4^16)
E8+E8のテータ関数は
{1/2(θ2^8+θ3^8+θ4^8)}^2
ここで,ヤコビの関係式
D4+=I4 → θ3^4=1/2(θ2^4+θ3^4+θ4^4)
θ3^4=θ2^4+θ4^4
より,θ3を消去すれば両者は(定数倍を除いて)一致することが確認できる.
ところが,偶ユニモジュラ格子は保型性
Θ((az+b)/(cz+d))=(cz+d)^(n/2)Θ(z)
を満さなければならないため,16次元の場合,テータ関数は,
Θ(z)=1+480Σσ7(n)aq^2n=E8(z)
ただひとつに限られる(σ7(n)はnの正の約数の7乗和,E8(z)はアイゼンシュタイン級数).
したがって,トーラスR^16/E8+E8とR^16/D16+は等スペクトルである(=16次元多様体の形は必ずしも聞き取ることはできない)ことが証明されたことになる.
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【2】クネーザーの反例
カッツの提出した「音で太鼓の形が聞き分けられるか?」という有名な問題については,ミルナーによる否定的な研究がありました.また,別の数学者は異なる次元で等スペクトル多様体(等しい固有値をもち,リーマン多様体として異なる多様体)の例を発見しました.
クネーザーは12次元の反例:
D12=1/2(θ3^12+θ4^12)
E8+D4=1/2(θ2^8+θ3^8+θ4^8)×1/2(θ3^4+θ4^4)
(行列式4)を見つけ,その後,北岡は8次元の反例(行列式81)を見つけました.
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体積(行列式),表面積,周長は聞き取れるが,形は聞き取れないという話を格子について述べてきましたが,多様体(多面体)ではどうでしょうか.
1984年,砂田利一(明治大学)は等スペクトル多様体をほとんど思うがままに作り出す画期的な方法を発見し,これによって低次元の実例を作り出すことが可能になりました.そして,カッツの反例となる等スペクトル多様体が構成できることを示したのです.
T.Sunada, Riemannian coverings and isospectral manifolds, Ann. Math., 121(1985), 248-277
にもかかわらず,長い間,2次元の世界で等スペクトル多様体のペアを探しだすことはできませんでしたが,1991年には大きな進展がありました.ゴードンとその夫ウェッブは,ウォルポートからヒントを得て,面積と周長は等しいけれども形の違う,けれども同じ音をもつ2次元・3次元のペアを探し出すことに成功したのです.
C.Gordon,D.Webb and S.Wolport, Isospectral plane domains.and surfaces via Riemannian orbits, Invent. Math., 110(1192), 1-22
また,現在知られている最も単純な2次元図形はチャップマンによる8つの角をもつ図形です.
S.J.Chapman, Drums that sound the same, Amer. Math. Monthly, 102(1995), 124-138
浦川肇「ラプラス作用素とネットワーク」,裳華房には,これらの図形が図入りで詳しく書かれています.とはいえ,新たな問題も浮かび上がっています.たとえば,もっと単純な構造をもつもの,あるいは,滑らかな境界をもつドラムのペアは存在するであろうか? 等々.スペクトル幾何学の研究はやっと始まったばかりで,まだ多くの問題が残されているのです.
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