■金平糖伝来

  銃に続いて,ポルトガル人はキリスト教布教に力を入れ,九州を中心に信者を急激に増やした.1563年にはポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが来日した.フロイスはその後長く日本に滞在,「日本史」を著しその中で日本人の礼儀正しさ,清潔好きなどを西欧に紹介している.

 

 宣教師が活躍したのは,秀吉がキリシタン迫害を行うまでのほんの数十年間であったが,その間にわが国に(を)ヨーロッパを(に)認識させ,新しい技術,文化,宗教を伝え,日本近代化の出発点を築いたのだった.

 

 1569年,フロイスは信長に謁見したとき,ろうそくとギヤマンの容器に入った金平糖を献上したといわれている.1569年は金平糖伝来の年といってよいわけであるが,金平糖は砂糖を使った菓子を意味するポルトガル語のconfeitos(コンフェイトス)が訛ったもので,英語のconfectionary(菓子製造所)も同源の単語であるらしい.

 

 金平糖の原料である砂糖は754年(奈良時代)に鑑真が中国から日本に伝えたのが初めであって,室町時代には輸入されたが,1610年には奄美大島や琉球で精糖がおこなわれ,そして徳川時代になって1770年代には白糖が,1796年には氷砂糖も作られるようになった.中国では砂糖はヨーロッパよりも早く作られていたのだが,大航海時代,ヨーロッパでも砂糖は相当貴重品であったということである.

 

 フロイスがもたらした金平糖の角のある形は,日本人の興味を著しく惹いたらしい.新奇なものをみるとすぐにまねをして作り上げ,しかも,オリジナルよりも上等のものに発展させるのは日本人の特技である.しかし,金平糖の角を生やすにはどうしたらいいのか,はじめは見当もつかなかったようで,金平糖の製法を発見するまで何十年もかかっている.

 

 NHKで老舗の和菓子屋の金平糖製作の様子が放映されていたが,金平糖の断面はケシの種子を芯として,結晶化がよく進んだ比較的透明の層が取り巻き,その外側に白っぽい角の部分がある.砂糖水をかけながら何日もかかって大きな粒に仕上げるのだが,粒の表面に出っ張ったところが偶然できたとすると,そこは砂糖水が付着しやすく,出っ張った部分はへこんだ部分よりも速く成長する.角の生成過程はこのようになっていると考えられている.

 

 面白いことに金平糖の角の数はほぼ一定していて,20〜30個ぐらいであるという.私は人間の胸膜(肋膜)に金平糖にそっくりの結石ができているのを見たことがあるが,その結石の角も同様にしてできあがったものなのだろうか?

 

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