■太鼓の形を聴けるか? (等スペクトル問題)

 太鼓の形を与えて太鼓の音を求める問題を順問題と呼びますが,これに対して,「太鼓の音を聞いて太鼓の形を推定する」問題は,逆問題の一例としてよく取り上げられるものです.実際,1次元(弦)ならば,その音を聞いて弦の形,すなわち,弦の長さを推定することができます.もっとも材質が違えば音色は異なるわけですが,この場合は音色ではなく,音の周波数(スペクトル)だけを問題とすることにします.それならば2次元(外周が固定された膜)ではどうでしょうか?

 

 歴史背景に思いを馳せてみましょう.1910年代,ワイルは太鼓の音からその面積を推定することが可能であることを証明しました(ワイルの法則).また,1930年代には音から周の長さも決定できることが示されました.

 

 面積や周長だけから正確に定義できる図形は円だけなので,円形の太鼓ならば音からその大きさを決定できることが解ったわけですが,しかし,面積も周長も等しいが形の異なる太鼓が,同じ音をもっているなどということがあり得るだろうか?という一般的な疑問には答えることができませんでした.

 

 1960年代になると,カッツは「ドラムの形は聴き分けられるか?」

  M. Kac, Can one hear the shape of a drum?, Amer. Math. Monthly, 73(1966),1-23

という論文を発表しました.カッツが提出した等スペクトル問題は,数学論文としてはめずらしく魅力的なタイトルがものをいって,大きな注目を集めこの問題を解こうという研究を大きく促すきっかけとなりました.等スペクトル問題は逆問題の特殊な例になっていて,この論文のタイトルが逆問題の有名な標語になったというわけです.

 

 数学者は1次元・2次元・3次元という一般的な空間だけにとらわれません.1964年,ミルナーは幾何学的には異なるけれども同じ音を出す16次元のドラムのペアを発見しました.また,別の数学者は異なる次元での例を発見しましたが,長い間,2次元の世界でそのようなペアを探しだすことはできませんでした.

   1984年,砂田利一は等スペクトル多様体をほとんど思うがままに作り出す画期的な方法を発見し,これによって低次元の実例を作り出すことが可能になりました.

  T.Sunada, Riemannian coverings and isospectral manifolds, Ann. Math., 121(1985), 248-277

 

 そして,1991年には大きな進展がありました.ゴードンとその夫ウェッブは,ウォルポートからヒントを得て,面積と周長は等しいけれども形の違う,けれども同じ音をもつ2次元・3次元のペアを探し出すことに成功したのです.

  C.Gordon,D.Webb and S.Wolport, Isospectral plane domains.and surfaces via Riemannian orbits, Invent. Math., 110(1192), 1-22

2つの領域が等しいスペクトルになることを保証する条件は砂田利一の定理に基づいて与えられます。

 

 また,現在知られている最も単純な2次元図形はチャップマンによる8つの角をもつ合同な七つの直角三角形を貼り合わせた図形です.

  S.J.Chapman, Drums that sound the same, Amer. Math. Monthly, 102(1995), 124-138

 浦川肇「ラプラス作用素とネットワーク」,裳華房には,これらの図形が図入りで詳しく書かれています.

 

 とはいえ,新たな問題も浮かび上がっています.たとえば,もっと単純な構造をもつもの,あるいは,滑らかな境界をもつドラムのペアは存在するであろうか? 等々.スペクトル幾何学の研究はやっと始まったばかりで,まだ多くの問題が残されているのです.

 

【参考文献】 浦川肇「ラプラス作用素とネットワーク」,裳華房、  第6章:ラプラシアンのスペクトル幾何

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