和算というのは世界の数学界から孤立して、日本独自の方法で発展したおもに江戸時代における数学のことをいいます。和算は、問題を自分が解くと神社仏閣に算額とよばれる一種の絵馬を奉納する形で継承され特異な発展を遂げました。現在まで数多くの算額が発見され、調査されています。
ニュートンの代表作「自然哲学の数学的原理(プリンキピア)」の出版された1687年は日本でいえば江戸時代、将軍徳川綱吉の御代、元禄年間が始まる1年前にあたります。ニュートンとほとんど同じ頃、和算の大家で算聖あるいは和算中興の祖とうたわれる関孝和が生れています(1642年)。世界で最初に行列式に気がついたのは関孝和で、連立方程式の変数の消去法として行列式の展開を正しく行っています(1683年)。ヨーロッパではライプニッツがやはり連立一次方程式の解法に関連して行列式の計算を行っているのですが、それは10年後の1693年のことで、孝和自身はライプニッツに先んじて行列式を導入しています。また、関孝和はベルヌーイ数{Bn
}をベルヌーイが見いだす前に見つけていたのです。
ニュートン、ライプニッツに代表される17世紀の数学は動的な数学で、微分積分学は具体的な問題を解くための方法として−−−イギリスのニュートンの場合は天体などの物体の運動の研究から、ドイツのライプニッツは曲線の接線や曲線の作る図形の面積を求めようとして−−−考えだされました。和算において、積分学はある程度実用計算に役立つまでに定着していたようですが、関孝和がニュートンやライプニッツより先に微分積分学を創り上げたという話は残念ながら信用しかねるもので、孝和をニュートン、ライプニッツに比肩する微分積分学の開祖とする言はやや手前味噌、誇大広告、贔屓の引き倒しかと思われます。ここでは、プライオリティー(優先権)の問題を議論する必要はないでしょう。
関孝和の例に見るように、和算の発展の速さは急速でいくつかの分野では当時の西洋数学の最高水準に到達していたし、和算は過去の日本人が残したもっとも独創的な知的遺産であるとの見方もあります。仲田紀夫氏によると、和算の発展史をみると創造性に欠けるが他国の文化の吸収には貪欲であるという日本民族の特性をよく反映しているそうで、和算の特徴を一口で言うと実用性を全く無視した学問であり、論証に弱く技巧本位で体系化を欠いたものであったとのことです。
このことは、日本が欧米に比べてハードウェアは強いが、ソフトウェアは弱いということにも関係がありそうで、西洋数学が普遍性の追求と数学の理念化をもたらし、以後の数学の運命を決定的に変えたのに対し、和算の場合それが
1)人間生活に密着しない「無用の用」の学問であり、華道・茶道と並ぶ芸の一つであって「芸に遊ぶ」という技巧を中心としたもので、
2)遊びの方向に進み、科学とのつながりがなかった。
というわけです。日本の数学愛好家たちは楽しみのための数学の発展に努め、自分たちの問題が実用上の応用をもたないことを誇りあることとさえ考えていたのかもしれません。
このように、和算は独自の研究を発展させていたとはいえ、功罪・毀誉褒貶相半ばし、和算以来の伝統の中、明治以降の理論偏重・技術蔑視で純粋数学を偏愛する日本の数学界の自閉症的傾向を作り上げたという意見もあります。今日、世界中には万国共通で標準化された唯一の数学があるのみですが、過去には幾種類かの異なる数学があり、同じ時代にいろいろの数学が並列しそれぞれ独自の発展を遂げていたわけですが、これらの点において、雑種性を許容する度量の大きさをもつ西洋数学と鎖国化により純粋培養された日本の数学の決定的な差があるようです。西洋的な数学者が連立1次程式(あるいは電卓)に例えられるのに対し、和算家はつるかめ算(あるいは暗算・そろばん)に例えられます。この比較は少し乱暴かもしれませんが、和算が開国とともに消滅の運命にいたったのは必然ともいえます。その優劣はさておき、発想やアプローチの仕方にはそれぞれ独創的なものがあるでしょうから、それらを比較してみるのも結構面白いかと思われます。