■サンゴ礁と豊饒の海
先日,秦浩司先生(現・ハザマ技術研究所)より,論文の別刷
Hata H, Kayanne H, et al.(2002): Organic carbon flux in Shiraho coral reef (Ishigaki Island, Japan), Marine Ecology Progress Series 232, 129-140
を拝受した.立派な論文であるし,科学的思考の伝道を存在理由にしているこのコーナーで取り上げない手はないだろう.
そこで,今回の「閑話休題」では秦先生の論文を紹介するが,夏という季節柄,夏→海→サンゴ礁の話題がタイムリーと思ったから取り上げることにしたのではない.秦論文におけるサンゴ礁の話は,(風の谷のナウシカの腐界の森みたいに)現在の環境問題のテーマにぴったりと思ったからである.まずは,話の背景から説明することにしたい.
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【1】バックグラウンド
地球誕生以来,炭酸ガスほど大気中の動向がよく知られている物質はないという.大気中の炭酸ガスが急激に増えているという話はご存知と思われるが,現在の増加速度を外挿していくと,200年後くらいにCO2濃度が4%,すなわち動物の致死量に達するという試算がある.
炭酸ガスは,太古の地球では大気中に98%とか99%という量を占めていたらしいが,植物が繁茂するようになって0.03%まで減少した.それが石炭,石油を燃やすようになってあと70年で化石燃料は枯渇するといわれるところまできている.それならば大気中の炭酸ガスはもっと増えているはずなのに,いまなお0.04%未満の組成量にとどまっていて,ほとんど増えていない.
そこで,炭酸ガスはどこへいっちゃたんだろうという話になるのだが,それが「missing sink」と呼ばれる謎である.ミッシング・シンクの説明のひとつとして,深層海底にメタンハイドレートの形で蓄えられているのだという説があるが,実際,深海のメタンハイドレートはバミューダ海域でも,バイカル湖でも,日本海からも吹き上げているとのことで,その場合,何かの異変でメタンハイドレートが一気にブローアップすることだって想定されよう.シミュレーションしてみると50年で窒息するという厳しい結果も出ているという.
つまり,このままだと人類はあと50〜200年で窒息死ということになる.多少の推定誤差はあるにしても,異常事態であることは明白で,一刻も早く炭酸ガスの上昇を食い止めないと人類は窒息死してしまう.地球温暖化による海面レベルの上昇などと寝ぼけたことをいっている場合ではないのである.
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【2】フランス学派と東大学派
ここでは,海洋生物学におけるサンゴ礁の生態系の位置づけについて述べておきたい.
サンゴはイソギンチャクなどの仲間である刺胞動物であるが,体内に藻類を共生させており,これが光合成を行う.サンゴは共生藻の光合成産物の一部を利用,余剰分を体外に放出するが,これを動物プランクトンや小型の動物が利用し,食物連鎖により高次の生物にエネルギーが移行するのがサンゴ礁生態系のシステムである.すなわち,サンゴは動物でありながら,生態系の中では植物的な役割を果たしているのである.
以下,炭素固定という用語が出てくるが,
炭素固定=光合成−呼吸
であって,炭素固定が正とは大気中のCO2濃度を下げる向きに働くという意味である.
若干の誤解や厳密性を欠いた部分はあるかもしれないのだが,Gattusoを中心とするフランスの海洋研究所では,サンゴ礁は大気中のCO2を下げるのに何の役にも立っていないというデータを出していたらしい.ところが,東大・地球惑星科学の茅根研究室ではまったく正反対の結論に至っていたことが事の発端である.
そこで,間違いを犯しているのはどっちかということが問題になっていたのだが,お互いに相手の間違いを指摘することができず,結論はもちこし状態にあったという.そんな折り,当時,東大の秦先生から誤差見積りの相談を持ちかけられた.
たとえば,炭素固定量=36という値が出ていたとしよう.しかし,これだけでは炭素固定の出納収支を論ずることはできない.なぜなら,生物データでは誤差がつきものであって,誤差を求めないと何もいえないのである.
科学的に推論するならば,誤差を考慮に入れた上で,もし36±100であれば,それはプラスとすらいえないわけであるし,36±25であれば,ギリギリだがプラスの可能性が高い.また,36±12であれば,ほぼ確実にプラスと判定できるわけである.
調べてみると,フランス学派の行った誤差の見積りは,モンテカルロ法によるものであった.モンテカルロ法であるから,元来,見積り計算の精度が低く,なおかつ計算間違いもあったのであるが,それが巧妙(?)な間違いだったため,だれも計算のウソを見破れなかったのである.
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【3】積分型に対する誤差伝播の法則
それに対して,私のとった方法は誤差論を用いるものである.誤差伝播の法則によると,y=f(x,θ)型回帰の信頼区間は
(Δy)^2=ΣΣ(∂f/∂θi)(∂f/∂θj)cov(θi,θj)
と書くことができる.
教科書には,
(Δy0)^2=Σ(∂f/∂θi)^2var(θi)
の形で載っていることが多いのだが,後者の誤差評価式は粗雑であって,
(Δy0)^2≧(Δy)^2
であることを留意されたい.
ところで,サンゴ礁における日照−炭素固定データの解析に対しては,誤差伝播の法則の積分型の公式を提示する必要がある.その問題は「積算値Y=∫ydtの誤差はどのように表されるのであろうか?」という問題に定式化できるのであるが,誤差伝播の法則を積分形式に対しても適用できるように拡張することが求められた.
ルベーグ積分の諸定理を使うと,
(ΔY)^2=ΣΣ(∂/∂θi∫fdt)(∂/∂θj∫fdt)cov(θi,θj)
=ΣΣ(∫∂f/∂θidt)(∫∂f/∂θjdt)cov(θi,θj)
のように,うまくpropagation of error for integrated formを導き出すことができるが,1行目から2行目に移るときにルベーグ積分の定理が用いられていることがおわかり頂けたであろうか?
また,(ΔY)^2は積分値の誤差に関する評価式だが,
(ΔY)^2=(Δ∫ydt)^2≦(∫Δydt)^2
すなわち,積分値の誤差は誤差の積分値よりも小さいことも容易に証明される.
一方,モンテカルロ法を使った場合,その精度は高々
(ΔY0)^2=Σ(∫∂f/∂θidt)^2var(θi)≧(ΔY)^2
にとどまるから,モンテカルロ法と誤差論を用いた場合の誤差見積りについては格段の差が生じるのである.
ちなみに,秦先生のデータをモンテカルロ法と誤差伝播の法則の両方で解析して比較すると,
モンテカルロ法: 7±18
誤差伝播の法則:36±12
であった.これによって,誤差の見積りを精度の高い形(36±12)にでき,炭素固定は東大学派,フランス学派いずれのデータを用いても正となることが判明した.この式によって,サンゴ礁は大気中のCO2削減に大きく寄与していることが証明されたことになるが,この式なしではCO2収支計算の誤差が大きく,サンゴ礁がCO2削減に役立っているかどうかわからなかったはずである.
小生の指摘した間違いは,論文の査読者であるフランス学派も認めてくれたようで,秦論文に対する評価は高かったのであるが,皮肉なことに,小生がフランス学派の間違いを指摘するために作成した式
(ΔY)^2=ΣΣ(∫∂f/∂θidt)(∫∂f/∂θjdt)cov(θi,θj)
に対しては,秦論文の共著者(東大学派)よりも,査読者(フランス学派)のほうが高く評価してくれたようである.
東大学派は式の真価もわからずに使っているというのが本音だと思われるが,いずれにせよ,この公式によってデータロジストの面目躍如たるものがあったと自負している.
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【4】サンゴ礁と腐界の森
その後の試算によると,森林地帯は世界中にあって,その面積はサンゴ礁よりもはるかに広大であるが,成長過程にある若い森林でないと
炭素固定=光合成−呼吸
が正にならないらしい.そのため,森林総計でも炭素固定に関しては±〜+ということである.
その点,サンゴ礁は世界中どこで測定しても正になると予想されていて,彼らの試算では,世界中の森林の炭素固定より,サンゴ礁の炭素固定の方が大きいということであった.すぐには信じられない話であるが,この試算に対しては,大本営発表の如く,われわれは議論すべきデータをもっていないのでノーコメントとせざるを得ない.
ともあれ,秦論文の主張していることは,サンゴ礁は地球上で最も豊饒な海で光合成を営むことによって,太古から現在,そして未来も炭酸ガスの増加を抑えるのに大切ということ(風の谷のナウシカの,腐界の森の木みたい)であって,サンゴ礁を安易に破壊するととりかえしのつかないことになるという教訓でもあった.
大昔の地球のCO2とサンゴ礁の関係についての推論は,昨年NHK特集でも放映され,私もそのTV番組を見たが,今年,東大・茅根研究室はサンゴ礁に関する国際シンポジウムを主催したようである.しかし,もしサンゴ礁が森林に匹敵する炭素固定を営んでいるとしたら,それはとても重要なことなので,科学特集を組んで宣伝する価値は十分にあるだろう.NHKの方々にお願い申しあげる次第である.
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【5】非専門家から見た今後のCO2対策のあり方
私は医学部の衛生学教室に在籍していた当時,ヒト体内の重金属汚染や有機溶媒の毒性試験を行っていたのだが,大学の研究者はお役人ではないので,毒性のおおまかなガイドラインを設定すればよいというお気楽で,無責任な立場にあった.言い方は悪いかもしれないが,危険であることを煽りさえすればよいのである.
対策を考えるという点で,私はズブの素人であり,こうした問題に詳しい人を相手に語るほどの知識はないが,一刻も早く炭酸ガスの上昇を食い止めないと危ない深刻な状況にあることは認識できるつもりである.門外漢ながらも,今後のCO2対策のあり方を考えてみたい.
葉緑体は細胞膜が層状に重なったものに葉緑素が埋め込まれたものであるが,半導体に似た作用で太陽エネルギーをキャッチし,大気中の二酸化炭素から炭水化物を合成し,酸素を放出する.これが光合成であるが,光合成の機構を参考にして有機化学反応を起こさせることは,化学者が永年抱いている夢である.
そこで,単分子膜を幾層も固体表面に重ねて,植物のクロロフィルや視細胞のレチナールのような機能性薄膜を人工的に創ろうという発想が芽生えるのは自然な成りゆきであろう.太陽電池もそういった半導体であり,機能性薄膜の1例である.しかし,太陽電池の電力変換効率は良くなく,その電力損失は大きい.また,機能性薄膜を使って光合成をさせることは,現在,簡単に実現できる段階にはない.
となれば,高速増殖炉と水力発電が日本の採るべき道ということになろう.金食い虫で一向に成果の上がらない高速増殖炉の研究は世界中でストップしてしまったから,将来の代替エネルギー源をどうするかという視点に立てば,水力資源開発が手っ取り早いと思われるが,水力資源開発だって環境破壊が叫ばれる昨今である.
増殖炉の研究は世界中でやめてしまったじゃないかという人は多いけれども,つまらない事故で壊しちゃった「もんじゅ」を再開させて,ダメだとわかるまで徹底的にやってみるだけの余地も遺されているのではないかと考えるが,如何であろうか?
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【6】誤差解析と高次元楕円
今回のコラムでは,サンゴ礁は大気中のCO2を減少させるのに大変役立っていると考える東大学派と役に立っていないと主張するフランス学派の論争を解決したのは,「誤差解析」であることを紹介した.
誤差解析の講義は難しいといわれ,不評なためか,カリキュラムに採用している大学は少ないようであるが,このような事例によって,誤差解析の威力を認識してもらえたならば幸甚である.
実は,秦論文で用いられた誤差解析を突き詰めていけば,高次元楕円体の問題に帰着することがわかっている.誤差解析に使った式の幾何学的応用問題ともいうこともできるわけであるが,高次元楕円体に関しては,いろいろな応用分野が考えられる.ネット検索してみたところ「超楕円体の描写の仕方を教えて・・・」等の要望が多いことがわかった.たとえば,6次元楕円を3次元空間で切った切り口を2次元平面に正射影するなどといった類である.
超楕円体の描写法とその応用については,9月下旬に3回シリーズで「閑話休題」に掲載予定であり,それに対する伏線を張るという意味もあって,今回のコラムではサンゴ礁の話題を取り上げた.超楕円体に関する原稿自体はとっくに完成しているのだが,いまはある理由から伏せている.それまでご勘弁願いたい.
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