まず、自己紹介から始めるのがスジでしょう。私は地方の研究所に勤務する一介の研究員ですが、3年前までは大学に在勤していました。自分の仕事をよく見せるための宣伝や派手なパフォーマンスなどとはおよそ無縁の人間ですから、学会発表などで自分をアピールすることがステータスになるなどという発想は私には似合わないし、しばしば戦闘的で政治的な能力がないとすまされない大学生活よりも、象牙の塔でのんびりと科学研究をやるほうを選び、現在研究所に在勤しています。旧帝大系であればともかく、地方研究所では予算的にも潤沢ではありませんが、それでも、時間がたっぷりと与えられることには満足しています。とはいっても、研究業績の査定がなされるので、あまりのんびりとやっているわけにもいきませんが・・・。
大学人は同僚との激しい競争の中で成長しますが、それは森の中の木のようなもので、細いままで上に伸びていくしかありません。あらゆる方向に十分枝を伸ばしながら研究したい人間は、森にいるよりも孤立して存在するのがいいかもしれません。
今回のコラムでは、独創性の高い研究をめざすために、最近の大学における研究と教育の在り方とその評価について考えてみることにしました。深刻な問題を話題にしているのですが、大風呂敷を広げてきまじめに正面切って論ずるというよりも雑談程度(業界物語風)に書いてみました。その中で現在の科学や科学者がおかれている状況を多少とも感じて頂けたら幸いです。
1.評価の問題
研究者にはいろいろなタイプがあります。問題の詳細を突き詰めて考えていく微分型(虫の眼型)、より広い観点から見渡して、進むべき方向を見定める積分型(鳥の眼型)、狭い世界に閉じこまって自分とは無関係な学問と絶縁する研究者、自分の学問とはかけ離れた分野を完全には理解できないまでもその重要性を認識することができる研究者など様々です。どの方向を珍重するか軽視するかで、当人が純粋科学志向か応用科学志向かが判定できます。
このように書くと、研究者とは浮き世離れした人種のように思われがちですが、現実には弱さとか卑劣さとかが満ち満ちていて、結構、他人からの評価、たとえば、「△は非常に立派な人物であったが、□はそうではなかった。率直にいって自己宣伝ばかりでね。・・・」などという噂話を気にしながら、うじうじ想いをめぐらせているのです。
大学でも自己規律の一貫として、自らの業績(主として、研究業績)に対しての評価が求められます。評価は公平でなければならないし、公平であるためには客観的な数字というのが次にきます。研究業績の評価を数値化するためには、とりあえず、論文数や被引用数が使われます。そのため、論文の粗製濫造にともなう質の低下の問題やさしたる論文でなくとも昔なじみの間柄同士でお互いに引用し合うなど、点数かせぎの問題がつきまとうことになります。
その反面、研究の独創性や創造性が評価の対象とされることはほとんどないといってもよく、学生教育など研究業績以外のものに至っては評価はまったくなされないというのが実状でしょう。私の経験でも、優れた独創性を発揮する名馬は多いものの、そのような研究環境下においては名伯楽は少なく、素質をもちながらも陰に隠れて不当に低く評価されている、あるいは正当な評価を妨げられた逸材がその才能を発揮することなく埋もれてしまっていることもしばしばみうけられました。
公平正当な評価をしてくれる全能の神がいてほしいものですが、それは望むべくもありません。ともあれ、否定ばかりしていたのでは希望のひとかけらも生命力もありませんから、自分がその場にいるとき、自分の行動を投げやりにもニヒリズムにもならないで完結できる人間になるしかないようです。
2.研究の問題
マニュアル化・ルーチン化と独創性は相反するものですが、科学が急速な発展を遂げ、専門化・細分化によってその領域を拡大してきた背景には、一方において、マニュアル化・ルーチン化の仕組みができあがったからにほかなりません。
歴史を振り返ってみましょう。ルネサンス期には、自然科学はまだ完全に人文科学とさえ分離してはいませんでしたが、この特徴も17世紀にはほとんど廃れてしまいました。関連が深いはずの物理と数学の研究ですら一般には結びつかなくなってしまったのです。高度の特殊専門化・細分化の道をたどってきたのは、19,20世紀の時代精神であり、科学全体の傾向に従っていて誰が悪いわけでもありません。もっとも、専門家が象牙の塔に厚い壁を作って権威を誇り、他分野のことに関知しないようなムードはあまりいただけません。
科学技術が高度に発達すると専門分科が進み、分野ごとに周囲に高い壁を張り巡らせて閉じられた世界と化すため、研究者の視野は狭くなる傾向があります。この自閉的な傾向はタコツボ専門化と称され、研究者は専攻外を敬遠し、保守主義に徹する偏屈で孤独なタコとなってしまいます。自分と無関係な学問から実りある刺激をうけることも珍しくありませんから、もっと遠くを見る視点を手に入れる努力をしないと、タコツボの中で終わってしまいます。(しかし、今でも科学の進歩を支えているのはそういうタコツボ研究者であり、そんな人たちが生きていけない世界になったら科学の魅力は半減してしまうかもしれませんが、・・・。)
余談であり「暴論」と軽く聞き流してもらいたいのですが、私は大学内で自然科学をこよなく愛する人や利己的でなく利他的な人と巡り会ったことがありません。大学の研究者は誰も世の中の役にたとうなどと考えて研究しているわけではないのです。誤解を覚悟でいえば「学問の目的は人間精神の名誉のためであって、実用主義を排した科学こそが学問の神髄である。」そのように心得ないと、あまり現実的とは思えずむしろ病理的ともいえる研究、どんな意味があるかもわからぬ研究に没頭することができなくなるからです。
だから、科学を趣味に遊ぶことを旨とした仮学、理学を人間生活に密着しない離学とみなして、何の役にも立たないことをむしろ自慢にし趣味的なものにあこがれて大学の研究者になるがよいとさえ思います。このような考えには当然いぶかる向きもありますが、給料が安いかわりに、研究者には遊び半分で好き勝手にやる自由が資格として与えられているようなものであるから、なにも気負う必要はないし、真理の追求ばかり意識していればよい研究成果が得られるというものでもない。−−−私自身、3年前までは大学に在勤していて、人間生活の福利ための応用をめざさない研究ほど応用範囲が広いなどと逆説的なことを考えていたのですが、大学から離れ、現場の研究所の在野研究者としてあらためて考えてみると、こういうとりくみ方や心理に対して、心得違いであったと謙虚に反省すべき点が見えてきます。自由という特権を持つものは責任を負っているのです。
憎まれ口かもしれませんが、大学では誤った業績主義、すなわち質より量をめざす論文の粗製濫造的生産活動のみに過剰な価値を与えているために独創性は阻まれ、学問そのものの細分化を促進することになり、結果として学問の希薄化を招く風土と化し、大学の没落を加速させているという深刻な危機感、悲観的な意見もあることは事実です。まことに、耳が痛くなるような話です。
私の在籍した医学分野に限ってのことかもしれませんが、大学の研究者たちは最先端と呼ばれる研究分野に関わっていないと乗り遅れる不安にかられるらしいし、実際、先端研究と銘打たないと政府や企業の援助も受けられません。そのため、最近では時代の流れに沿った華やかな研究のみをすればよいという考えが浸透し、肝心のアイデアやシナリオを欠いた表層的、短期的、場当たり的、近視眼的で上すべりがちな研究におわれて、複雑な現象を解析するための方法論の開発と確立など根源的な問題は無視ないし軽視されてきました。結構、チャラチャラしていて、権力指向的でステータスシンボルだけをチェイスし、学問自身からも疎外された論文生産機械になっていると表現してもよいでしょう。
したがって、先端的な研究を行なっているにもかかわらず、流行に合わせるだけで、昔ながらの論理に支配されていて権威主義・形式主義が横行し、旧態依然として、かえって後進性だけが目立っているのが実状です。
このように考えているのは私ばかりではないでしょう。科学研究も人間の営みである以上、流行には逆らえないし、研究者社会でのはやりすたりの激しさはまさにファッション並ですが、流行は1年ももたないのが世の常で、熱はすぐに冷めきってしまいます。突破口の切り開きをどこに求めたらよいのか−−−これはいつの時代にも普遍的な課題でしょうが、一時のブームに翻弄されず、しっかりと自分を律しあせらず次のステップへの独創的なブレークスルーをめざしたいものです。
自然そのものにはわれわれの専門分野のような境界がなく、その意味で自然の理解を深めるには境界領域とか学際的と呼ばれる形の研究を進めなければならなりません。数学、物理学、化学、生物学、遺伝学、心理学、経済学、情報科学、言語学、免疫学、コンピュータ科学などで対象となっていたテーマに細分化された各専門を越えて横断的に取り込んでいこうとする学際性を重んじた研究が奨励されるようになってきましたが、独創的な科学研究を目指すには、専門分野にとらわれることなく柔軟な姿勢で積極的に専攻外の知識も融合すること、広い視野にたってかけ離れた分野の素養を身につけることが要求されます。もはや、狭い殻に閉じこもってはいられないのです。現在多くの大学では多分野にわたる教官が協力しあって、一つのテーマについての授業を進める総合科学が開講されているのもそのためであろうと思います。
現在の環境下では困難が多いとは思いますが、いたずらに流行を追うのではなく、石の上にも三年といわず十年の覚悟で地道な基礎研究を続け、狭い分野に閉じこもらず、堅い頭を柔軟にして科学の職人として自然の基本的な仕組みや科学の技術化を追及したいものです。
3.教育の問題
教師の大切な仕事は学生を助けるということです。いうまでもなく、それには時間と労力、熱意と健全な指導原理が必要で、この仕事はあまりやさしいことではありません。数学に限っていうと、大学の数学教育も短時間に多く詰め込むので、学生の消化不良、数学と数学教育への不信を生みだしていて、なかには怨念さえ抱いている学生もいます。拙い速いはさけねばなりません。
大学設置基準が見直されて、教養課程および教養部は大きく変革を迫られることになりました。教養課程なるものがなくなってしまった今、教育がいかにあるべきかという問題が旧教養部の教官のみならず、学部や大学院の教官にとってもますます重大な問題になっています。大学の組織改編と絡めて、大学における教育の在り方についての議論を聞くことが多くなったのですが、今までは、教官にとっても本職は研究で、教育はつけ足しといった感覚は普通でさえありましたから、とにかく議論があるのはいいことなのであろうと思います。
新時代に即した教育が求められるようになったことの発端は、大学をサロンと考えている教授たちばかりでなく、レジャーランドのひとつと考えている学生側にもあり、教官側の問題(大学での教育は理論のみに偏って、一流大学の出身者であっても全く役にたたぬというクレームがついたこと)ばかりとも思えませんが、少なくとも在来の理数教育がそのままでは通用しなくなっていることの現れです。
私が旧教養部の教官から聞いたところですから、普遍的であるかどうかはわかりませんが、大学設置基準が変わって情報処理教育の枠が大幅に拡大されたそうです。なかなか頭に思い浮かべにくいもの、リアルなイメージをなんともつかみにくいものをリアリティーをもってイメージさせるためには、適切なソフトは有効であるかもしれません。
ところが、大学の情報処理教育を統計処理ソフト、ワープロ、表計算ソフトの利用だけでお茶を濁そうとする風潮があるらしいということを聞いてがっかりさせられました。教育のプロを自認しているひとの話だから本当のことなのでしょうが、できの悪い学生にはコンピュータでも与えて遊ばせておけなどという議論があったりするとのことです。これは案外、熱心な教官の本音であるかもしれませんが、いくら適切なソフトを選んだとしても、それでは教育的に大きな効果は期待できず意味が薄いではなかろうかと案じています。
統計や情報処理は自然科学や人文科学の教育にとり大切だといわれて久しいのですが、現実には刺身のつまのような存在で、時間つぶしの術のごとく扱われてきました。統計や情報処理は自然科学や人文科学全般にわたる基礎科目であるだけに無関心ではあり得ないと思われるのですが、それらを専攻してもわが国では評価が低く、いくら訓練を受けても誰からも支持されず、冷遇されるばかりでまともな仕事口すら得られないのが実状だったのです。統計や情報処理などの応用数学の分野で頑張っていればいつの日にか賞がもらえるだろうという期待すらもありません。これらの学問は長い間見捨てられてきたことになります。
そのことに加え、情報処理教育は開店休業状態にある旧教養部教官の失業救済という一面をもっていますから、単純な話ではなくもっと生臭い話ではありますが、情報処理や統計は多くの学問の共通語であり、一生役立つ技術で、ものの考え方が身につくものですから、小手先だけの対応ではなく抜本的な発想の転換が迫られてしかるべきであろうと感じています。
できの悪い学生に講義をする教官としての義務は確かに重荷でしょうが、考え方によっては特権でもあります。教えることにより再び基礎を考察することになり、そこからは学ぶことも多くありますから、教授活動は学者にとって基本的なものとなるはずです。少なくともアメリカのある大学では優れた学者を起用して初年級から大学院まで講義をさせていて、講義録、たとえば、クヌースらの「コンピュータの数学」共立出版刊やポリアらの「組合せ論入門」近代科学社刊、C.L.リウ「組合せ数学入門」共立出版をみた私の感想はその講義は実に見事なものであり、応用面にも心が払われているというものでした。
講義録だから、数学的観点から見てそれほど高級なことが書いてあるわけではありませんが、初歩的なことからわかりやすく書いてあるし、それに何より実用的な例題が豊富なことがよいと感じられます。さすがはアメリカの教科書だと思った次第です。
はなから、アメリカの教育のまねさえすればうまくいくなどという議論は実態を知った上でのことなのかどうか疑わしく信用できないところがありますが、むろん、アメリカの大学にも優れたところはたくさんあるし、それは大いに学ばねばならないと思います。教育はやり直しがきかず、効果の判定も難しいものですから、国家百年の計という視点からの根本理念の変革が必要となりましょう。
私の念頭を離れないもう一つの課題に、教科書はこのままでよいのかという問題があります。学生が担当教官の著した教科書を買ってくれないという教科書離れがみられ、教科書出版社が悲鳴をあげているという話をある編集者から伺ったことがあります。教科書離れには、教官が学生に自分の著書を押し売りし、そこにつけこんで利益を上げようとする出版社にも問題があると思われ、学生たちがつまらない教科書を本能的に拒否した現象かもしれませんが、学生時代は知識を学ぶよりも、新しい興味をかきたてたり、物をつくる達成感や自分で問題を考える能力を養う向きへ方向転換させるべきで、知識は生涯学習の形で必要に応じて何度も再履修できないものでしょうか。
他人のやったことを全部習得させるよりも、自主自力で新しいことを試みさせることは、落ちこぼれ対策ではなく、逆に優秀な学生をさらに飛躍させるためにも有効で、独自の創造に転換するための第一歩となるものと思っています。無論、再教育する余裕もないという段階ではこの方針は実行に移せませんが、ともあれ、わが国には眠っていた感性と才能を呼び覚ますようなもっと良い科学教育や科学誌が必要だと考えています。