■格子上の確率論(その8)
空間の性質は,次元が変わるごとに劇的といってよいほど変わります.前回のコラムで紹介した,多様体に関するガウス・ボンネの定理やヒルツェブルフの符号数定理,エキゾチックな球面(ミルナーの定理)はその例でしょう.これらの面白さ・不思議さ・美しさと同時に,その背後にある数学の奥深さは,知れば知るほどに神秘的です.
格子上の確率論(その1)〜(その7)では,酔歩に関連する様々な話題を取り上げてきましたが,常にその中心となっていたのが,再帰確率に関するポリアの定理(1921年)です.
「d次元格子に対して,非再帰的となる必要十分条件はd≧3となることである.」
今回のコラムでは,格子上の酔歩の問題とともに「カッツの太鼓の問題」を解説します.カッツの問題では,膜の振動の情報から太鼓の形がわかるだろうかという連続の世界の問題を扱いますが,それを離散の世界に拡張するとネットワークのラプラシアン・スペクトル幾何の問題に転化します.それに関しては,格子上のランダムウォークと同様に,隣接行列や推移行列を用いて解析されるのですが,ここではその雰囲気が少しでも伝われば幸いです.
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【1】ポリアの定理
ポリアの定理の証明は,通常,n→∞のときの原点にいる確率の漸近挙動を調べることによって行われます.2nステップのとき,原点にいる確率をu2n,原点への最初の復帰が2n回目に起きるという確率をf2nとすると,求める再帰確率はΣf2nで表されます.
ここで母関数を使った少し込み入った議論が必要になるのですが,母関数の方法の利点は,個々の数列ごとに工夫しなくても,一般項が求まることにあり,有限グラフ上の閉路で,途中で出発点に戻ることのない閉路の数と,何度戻ってもよい閉路の数との間の関係式を求めるという問題になります.
結論だけをいうと,n→∞のとき,
Σf2n=(Σu2n−1)/Σu2n=1−1/Σu2n
が成り立ちます.Σu2n=∞のときにはΣf2n=1,すなわち,ランダムウォークは再帰的,また,Σu2n<∞のときにはΣf2n<1で非再帰的となります.そこで,Σu2nの値を求めてみることにします.
1次元酔歩の場合,
u2n=2nCn/2^(2n) 〜 (πn)^(-1/2)
Σu2n=∞(再帰的)
2次元酔歩の場合,
u2n=1/4^(2n)(2nCn)^2 〜 (πn)^(-1)
Σu2n=∞(再帰的)
それに対して,3次元酔歩では
u2n=cn^(-3/2) 〜 (πn)^(-3/2)
Σu2n<∞(非再帰的)
よって,3次元酔歩は非再帰的.同様にして,4次元以上の酔歩は
u2n 〜 (πn)^(-d/2)
Σu2n<∞(非再帰的)
より非再帰的であることが示されます.
以上をまとめると,
格子の次元 (1,2) (3,4,5,6,・・・)
酔歩 再帰的 非再帰的
2次元格子であれば,正方格子に限らず,三角格子,六角格子,カゴメ格子でも再帰的ですし,3次元格子では単純立方格子以外の体心立方格子,面心立方格子,ダイヤモンド格子でも非再帰的です.
正方格子 u2n 〜 (πn)^(-1)
三角格子 u2n 〜 √3/2(πn)^(-1)
六角格子 u2n 〜 3√3/2(πn)^(-1)
カゴメ格子 u2n 〜 2√3/3(πn)^(-1)
これらは,酔歩の推移確率行列から導き出されます.詳細については志賀徳造「ルベーグ積分から確率論」共立出版を参照して頂きたいのですが,ここで,非再帰的というのは,決して原点に戻れないということではなく,いつまでたっても(たとえ寿命が∞であっても)原点に戻れない確率が正であるという意味なのです.
一方,2次元酔歩は再帰的確率1で原点に戻れるが,再帰時間の期待値は∞であり,もし寿命が∞であれば原点に戻れるという意味ですが,2次元でも非ユークリッド空間で曲率が負の場合,酔歩は非再帰的になることが知られています.
また,d≧3の斉次型ツリー(ベーテ格子)上における酔歩は,0を反射壁とする
p=(d−1)/d
の1次元非対称ランダムウォークに一致しているため,
u2n 〜 (d(d-1)/√π(d-2)^2)(4(d-1)/d^2)^n・n^(-3/2)
〜 C・R^2n・n^(-3/2) R=2√(d-1)/d
したがって,d≧3に対してR<1が成り立ちますから,ベーテ格子上のランダムウォークは非再帰的ということになります.
ベーテ格子上のランダムウォークの場合には,出発したサイトに戻ってくる再帰確率は1/dですから,どこか他のサイトに移る確率は1−1/dで,dが大きくなるほどもとのサイトから離れやすくなることがわかります.
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【2】もっと精密な積分による評価
ところで,ここまで進んできて,何か物足りない(もどかしい,しっくり来ない)と感じられた方も少なくないものと思われます.なぜなら,上に掲げた再帰性の証明は,不等式による評価をしただけであって,まだ本質をしっかりと掴んだわけではないのです.
そこでまず1次元酔歩について見直してみることにします.xから出発して,x−1,x+1に行く推移確率はそれぞれ1/2ですから,
un+1(x)=1/2{un(x−1)+un(x+1)}
これに着目して,格子空間におけるフーリエ級数展開の方法を適用してみます.θを実変数として,
Qn(θ)=Σun(x)exp(ixθ)
を考えると,
Qn+1(θ)=1/2{exp(iθ)+exp(−iθ)}Qn(θ)
=Qn(θ)cosθ
Qn(θ)=1より,母関数(特性関数)は
Qn(θ)=(cosθ)^n
と簡単な形になります.
母関数から確率un(x)を復元するには,フーリエ逆変換
un(x)=1/2π∫(-π,π)exp(−ixθ)Qn(θ)dθ
するのですが,とくに,x=0のときは
un(0)=1/2π∫(-π,π)(cosθ)^ndθ
となります.ここで,n=0,1,2,・・・について和をとれば
Σu2n=1/2π∫(-π,π)(1−cosθ)^(-1)dθ
が得られます.
2次元格子上の酔歩では,
un+1(x,y)=1/4{un(x−1,y)+un(x+1,y)+un(x,y−1)+un(x,y+1)}
Qn+1(θ)=1/4{exp(iθ)+exp(−iθ)+exp(iφ)+exp(−iφ)}Qn(θ)=Qn(θ)(cosθ+cosφ)/2
これより,
u2n=(1/2π)^2∫(-π,π)∫(-π,π){(cosθ+cosφ)/2}^ndθdφ
Σu2n=(1/2π)^2∫(-π,π)∫(-π,π){1−(cosθ+cosφ)/2}^(-1)dθdφ
まったく同様に,3次元格子上の酔歩では
u2n=(1/2π)^3∫(-π,π)∫(-π,π)∫(-π,π){(cosθ+cosφ+cosψ)/3}^ndθdφdψ
Σu2n=(1/2π)^3∫(-π,π)∫(-π,π)∫(-π,π){1−(cosθ+cosφ+cosψ)/3)}^(-1)dθdφdψ
3次元酔歩の非再帰性を示すには,この積分が確定することがいえればよいのですが,楕円積分を使って,
Σu2n=(2π)^(-3)∫(-π,π)(1−1/3Σcost)^(-1)dt
=(√6/32π^3)Γ(1/24)Γ(5/24)Γ(7/24)Γ(11/24)
=1.51・・・
と評価され,したがって,
Σf2n=(Σu2n−1)/Σu2n=1−1/Σu2n
=0.34・・・
と計算できます.
このように,母関数の方法は極めて有効ですが,一般に,d次元超立方格子上のランダムウォークにおいては,
Σu2n=(2π)^(-d)∫(-π,π)(1-φ(t))^(-1)dt
φ(t)=1/dΣcos(t)
より,
Σu2n=∫(0,∞)exp(-x){I0(x/d)}^ddx
が得られます.したがって,d次元格子上の再帰確率pdは
pd=Σf2n=1−1/Σu2n
=1−[∫(0,∞)exp(-x){I0(x/d)}^ddx]^(-1)
で与えられます.
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1次元・2次元酔歩の場合,積分
Id=Σu2n=(2π)^(-d)∫(-π,π)(1-φ(t))^(-1)dt
φ(t)=1/dΣcos(t)
が発散することは次のようにして示すことができます.
(1次元酔歩)
cosx≧1−x^2/2
より,
2πI1=∫(-π,π)(1−cosx)^(-1)dx
≧∫(-π,π)2/x^2dx=∞
(2次元酔歩)
2−(cosx+cosy)≦1/2(x^2+y^2)
より,
(2π)^2I2=∫(-π,π)(2−cosx−cosy)^(-1)dxdy
≧∫(-π,π)2/(x^2+y^2)dxdy
ここで,x=rcosθ,y=rsinθと極座標変換すれば,
dxdy=rdrdθ
より,θ
(2π)^2I2≧∫(0,π)∫(-π,π)2/rdrdθ=∞
参考までに,1次元酔歩の再帰確率u2nの母関数は
Q(t)=(1-t^2)^(-1/2)
2次元酔歩では母関数は第2種楕円積分
Q(t)=2/πK(t)
となりますが,
Σun=Q(1)=∞
より,1次元酔歩も2次元酔歩も再帰的であることがわかります.また,これらとベッセル関数との間に,積分公式
Σu2n=∫(0,∞)exp(-x){I0(x/d)}^ddx
が成り立つことも確認されます.
同様に,3次元空間での極座標変換のヤコビアンは
dxdydz=r^2sinθdrdθdφ
4次元以上では
dxdydz・・・=r^(d-1)sin^(d-2)θsin^(d-3)φ・・・drdθdφ・・・
と続きますから,一般のd次元では
Id=c∫r^(d-1)/r^2dr=c∫r^(d-3)dr
したがって,
Id=∞ (d=1,2のとき発散)
Id<∞ (d≧3のとき有限確定)
であることが確かめられます.
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【3】ラプラシアンと調和関数
たとえば,2次元酔歩の推移確率
un+1(x,y)=1/4{un(x−1,y)+un(x+1,y)+un(x,y−1)+un(x,y+1)}
のように,各点での値が隣接する点での平均であるような関数を(グラフ上の)調和関数といいます.酔歩と調和関数の関係は,第2次大戦中に角谷静夫先生により発見されたものだそうです.
また,これまで酔歩の足跡を追って格子空間の話を扱ってきたのですが,フーリエ級数展開によって母関数Qn(θ)はθの連続関数となっていることがわかりました.ここから話は連続的な世界に移るのですが,たとえば,それぞれ3変数の関数
f(x,y,z)=0,
g(x,y,z)=0,
h(x,y,z)=0
があって,1階偏微分の関数行列(式)
[fx fy fz]
J=[gx gy gz]
[hx hy hz]
をヤコビアンといいます.
例をあげると,3次元空間での極座標は
x=rsinθcosφ
y=rsinθsinφ
z=rcosθ
ですから,そのヤコビアンを計算すれば,
dxdydz=r^2sinθdrdθdφ
となります.
ヤコビアンはヤコビの名をとどめる行列(式)ですが,ヘッセにもヘシアンという彼の名前をとどめる2階偏微分の関数行列(式)があって,3変数の場合は,H=▽^2Fとして
[Fxx Fxy Fxz]
H=[Fyx Fyy Fyz]
[Fzx Fzy Fzz]
になります.
ヘシアンのトレース(対角線の項の和)を
△F=Fxx+Fyy+Fzz
あるいは,
△f=−(fxx+fyy)
のように負号をつける場合もあるわけですが,微分作用素
Δ=d^2/dx^2+d^2/dy^2+d^2/dz^2,
Δ=-(d^2/dx^2+d^2/dy^2)
をラプラシアンと呼びます.また,
△f=0
であるとき,fは調和関数であるといいます.
離散の世界では,積分は級数の和に,微分は差分に対応しますから,実際に2階偏差分を計算すると,△f=0に対応する2次元格子上の対応物(グラフ上の調和関数)は,
△f(m,n)=4f(m,n)−{f(m+1,n)+f(m−1,n)+f(m,n+1)+f(m,n−1)}=0
であることがわかります.すなわち,(m,n)におけるfの値とこれに隣り合う4点での平均値が一致する関数が(グラフ上の)調和関数というわけです.
また,ユークリッド空間以外の空間,たとえば双曲幾何空間を考えることも可能ですが,その場合,複素上半平面に対するラプラシアンは
Δ=-1/y^2(d^2/dx^2+d^2/dy^2)
であり,具体的に固有値・固有関数を求めることは格段に難しくなります.
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【4】ラプラシアンのスペクトル
太鼓の形を与えて太鼓の音を求める問題を順問題と呼びますが,これに対して,「太鼓の音を聞いて太鼓の形を推定する」問題は,逆問題の一例としてよく取り上げられるものです.
実際,1次元(弦)ならば,その音を聞いて弦の形,すなわち,弦の長さを推定することができます.もっとも材質が違えば音色は異なるわけですが,この場合は音色ではなく,音の周波数(スペクトル)だけを問題とすることにします.それならば2次元の外周が固定された膜ではどうでしょうか?(ディリクレ問題)
この物理問題は,ある図形に対してそのラプラシアンの固有値を考えるという数学的問題となります.ラプラシアンの固有値とは,ある関数fについて,
Δf=λf
となるようなλのことであって,逆にいうと,ラプラシアンの固有値が図形を知るための手がかりとなるのです.
線形代数では,対称行列の固有値問題
Ax=λx
においては,対称行列は対角化可能で実数の固有値をもつことを学びますが,ラプラシアンの固有値問題において,スペクトルとは固有値(とその一般化したもの)のことであり,対称行列の固有値・固有ベクトルに対応するものは,ラプラシアンのスペクトル分解と呼ばれます.
固有値全体の集合をスペクトルというわけですが,スペクトルとは固有値と連続スペクトルの全体を指します.連続スペクトルとは,固有値と同じ式を満たすものでありながら,固有関数が必要条件(2乗可積分性)を満たさないため,固有値とは認められないものです.非コンパクト面(曲面の中に無限に伸びている部分がある場合)では,連続スペクトルが存在することが知られています.
また,関数fを固有関数と呼びますが,fを基本領域上の関数に限定することにより,固有値の分布に面白い性質が現れます.たとえば,一辺の長さがそれぞれa,bの長方形を基本領域とするディリクレ問題(外周が固定された膜)では,
固有値: π2(m2/a2+n2/b2)
固有関数:sin(mπx/a)sin(nπx/b)
で与えられます.
(証明)
スケール・パラメータa,bを取り払って,単位正方形内で考えることにするが,この基本領域はトーラス面と同一視される.トーラス上の関数はx,yを整数だけ動かしても値が変わらないという性質をもつから,固有関数は
f=exp{2πi(mx+ny)} (m,nは整数)
という形になり,
Δf=4π2(m2+n2)f
したがって,固有値は
λ=4π2×(平方数の和)
という形をしており,固有値分布は平方数の和の分布と同じになる.
すなわち,固有値がとびとびの値をとるという離散性が示されましたが,この辺の事情はボーアの原子模型の話に通じるものがあります.→【補】自然の不連続性
なお,弦の振動では
λ=c×n2/a2
直方体の振動系では
λ=c×(l2/a2+m2/b2+n2/c2)
となり,すべて同じような特徴をもっていることに気付かれます.また,矩形領域(弦の場合を含む)では固有関数は三角関数で表されましたが,円板や球の場合は,ベッセル関数を用いれば具体的に解を求めることができます.
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【5】固有値の漸近分布
ここで,固有値を小さい順に並べたn番目の固有値λnが,nとともにどのように大きくなるのか,固有値の漸近分布について考えてみることにします.
N(λ)=#{n|λn≦λ}
すなわち,λ以下の固有値λnの個数の分布関数に着目すると,
π2(m2/a2+n2/b2)≦λ,m≧1,n≧1
したがって,λ→∞のとき,
(1/√λ)^2N(λ)→(楕円の面積)
であり,楕円に含まれる格子点の個数となることが理解されます.ここに現れたような格子点数の計算は,一般に「数の幾何学」と呼ばれ,ミンコフスキーに始まるものです.
同様にして,d次元の超直方体ではその(超)体積をVdとして,
Nd(λ) 〜 cdVdλ^(d/2) (λ→∞)
が成り立つことが理解されます.固有値の数の増大のしかたは,次元とともに指数関数的に増大するのですが,(2次元)曲面では
N(λ) 〜 cλ
したがって,固有値はλのほぼ比例して存在することになります.
ここで,c=cdは次元dのみに依存する定数ですが,
cd=(2π)^(-d)π^(d/2)/Γ(d/2+1)
すなわち,λ→∞のとき,
Nd(λ) 〜 (2π)^(-d)π^(d/2)/Γ(d/2+1)Vdλ^(d/2)
で表されるというのが,ワイルの公式の特別な場合です.
なお,半径1のd次元超球の体積は,
vd=π^(d/2)/(d/2)!=π^(d/2)/Γ(d/2+1)
で与えられますから,ワイルの公式は
Nd(λ) 〜 (2π)^(-d)vdVdλ^(d/2) 〜 Cλ^(d/2)
と書くこともできます.
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【6】太鼓の形を聴きとれるか? (等スペクトル問題)
Δf=λf
の固有値
λ1≦λ2≦λ3≦・・・
が固有振動数を与え,対応する固有関数
φ1,φ2,φ3,・・・
がそれぞれの固有振動数で振動する膜の変位の様子を与えてくれます.
ワイルの定理とは,いわば「太鼓の音を聴けばその面積がわかる」というものですが,ここでは,歴史背景に思いを馳せてみましょう.1910年代,ワイルは太鼓の音からその面積を推定することが可能であることを証明しました(ワイルの法則).
また,1930年代には音から周の長さも決定できることが示されました.
Nd(λ) 〜 cdVdλ^(d/2)−cd-1/4Ad-1/4λ^((d-1)/2)
ここで,Ad-1はd次元多様体Vdの表面積を表します.
面積や周長だけから正確に定義できる図形は円だけなので,円形の太鼓ならば音からその大きさを決定できることが解ったわけですが,しかし,面積も周長も等しいが形の異なる太鼓が,同じ音をもっているなどということがあり得るだろうか?という一般的な疑問には答えることができませんでした.
1960年代になると,カッツは「ドラムの形は聴き分けられるか?」
M. Kac, Can one hear the shape of a drum?, Amer. Math. Monthly, 73(1966),1-23
という論文を発表しました.カッツの問題とは,漸近挙動
Nd(λ) 〜 cdVdλ^(d/2)
をもっと詳しく調べれば,太鼓の形についての幾何学的情報がすべて得られないだろうか?という問いかけです.カッツが提出した等スペクトル問題は,数学論文としてはめずらしく魅力的なタイトルがものをいって,大きな注目を集めこの問題を解こうという研究を大きく促すきっかけとなりました.等スペクトル問題は逆問題の特殊な例になっていて,この論文のタイトルが逆問題の有名な標語(スローガン)になったというわけです.
カッツの論文により「太鼓の音から,その面積,周の長さ,穴の数が聴きとれる」ことが示されたのですが,これらの成果にもかかわらず,境界の形が円であるのか楕円であるのか,四角形か多角形かなのか,面の正確な形が推測できるかというさらに一般的な疑問には答えられませんでした.これが,マッキーンやシンガーなどの人々を触発し,その後の研究が展開する契機となりました.
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数学者は1次元・2次元・3次元という一般的な空間だけにとらわれません.無限次元さえ考えるのですが,1964年,ミルナーは幾何学的には異なるけれども同じ音を出す16次元のドラムのペアを発見しました.また,別の数学者は異なる次元での例を発見しましたが,長い間,2次元の世界でそのようなペアを探しだすことはできませんでした.
1984年,砂田利一(東北大学)は等スペクトル多様体をほとんど思うがままに作り出す画期的な方法を発見し,これによって低次元の実例を作り出すことが可能になりました.
T.Sunada, Riemannian coverings and isospectral manifolds, Ann. Math., 121(1985), 248-277
そして,1991年には大きな進展がありました.ゴードンとその夫ウェッブは,ウォルポートからヒントを得て,面積と周長は等しいけれども形の違う,けれども同じ音をもつ2次元・3次元のペアを探し出すことに成功したのです.
C.Gordon,D.Webb and S.Wolport, Isospectral plane domains.and surfaces via Riemannian orbits, Invent. Math., 110(1192), 1-22
また,現在知られている最も単純な2次元図形はチャップマンによる8つの角をもつ図形です.
S.J.Chapman, Drums that sound the same, Amer. Math. Monthly, 102(1995), 124-138
浦川肇「ラプラス作用素とネットワーク」,裳華房には,これらの図形が図入りで詳しく書かれています.また,これまで連続の世界の話をして参りましたが,離散の世界:ネットワークのラプラシアンやスペクトル幾何に関しては,グラフ上のランダムウォークと同様に,隣接行列や推移行列を用いて解析されるのですが,同書にはこれらの詳細についても掲載されています.
とはいえ,新たな問題も浮かび上がっています.たとえば,もっと単純な構造をもつもの,あるいは,滑らかな境界をもつドラムのペアは存在するであろうか? 等々.スペクトル幾何学の研究はやっと始まったばかりで,まだ多くの問題が残されているのです.
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【参考文献】
浦川肇「ラプラス作用素とネットワーク」,裳華房
第6章:ラプラシアンのスペクトル幾何
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【補】自然の不連続性
19世紀末から20世紀初頭にかけて,物質の不連続性(原子),電気の不連続性(電気素量e)に引き続き,エネルギーの不連続性(hν)という自然の秘密は徐々に暴かれてきました.
1913年,ボーアはプランクが提案した量子化の概念を原子構造に導入することによって,原子模型の難点を解決できることに気づきました.ボーアはバルマーやリュードベリのスペクトル系列の公式:
1/λ=R(1/m2 −1/n2 )
の中に,
a)原子の中には電子が輻射を行わない軌道があること,
b)輻射は電子がある軌道から別の軌道に跳躍するときだけに生じることを見つけだし,原子自体の微細構造を明らかにしたのです.
なお,リュードベリ定数Rは物理学の普遍的な定数で,電子の質量m,電子の電荷e,光速度c,プランク定数hと式
R=2π2 me4 /ch3
で結ばれています.しかも,eについては4乗,hについては3乗しているのですからかなり複雑な関わり方をしています.
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