0.日本は物を作っている人間に対する尊敬を失わない国か?
現代は身の回りに有用・無用の情報が氾濫しています。それでは情報が増加して人は賢明になったかと問われると、現実には過剰な知識・情報に振り回される人間像が目につきます。まさに、情報インフレーション時代です。情報革命は、いまのところマニアのマニアによるマニアックな現象であって、個々人が情報に埋もれずに情報を有効に使う能力が向上しない限り、情報オタクを生み出すだけの軽薄短小な一過性現象となってしまうでしょう。
昨今、子供はコンピュータ・ゲームに、大人はパソコン通信に夢中になっていますが、コンピュータ・ゲームやパソコン通信では何か満たされないものが残るのも事実だと思われます。何が満たされないのでしょうか。それは「創造する心」であると私は考えています。私は医学部の出身ですが、医学部の場合、研究問題、教育問題と並んで診療問題があげられます。最近の研修医は与えられた課題はうまくこなすが、自分で問題を考える能力に欠けることが報ぜられていて、how
toはできるが、what toはダメという問題は多くの面で現れています。他学部にとっても馴染みの薄い問題といってもいられないでしょう。
この問題は在来の教育がそのままでは通用しなくなってきたことの現れでもあります。ここでは、創造力の欠如の問題と関連して、私が取り組んできた課題「コンピュータの研究への応用」について触れてみたいと存じます。
1.計算機屋誕生
小生の本職は病理医ですが、本職とはほとんど関係ない数理科学を生業にしています。その意味では極めて病理学的な病理医であろうかと思います。浮き世離れした学問を勉強し、コンピュータを用いる科学計算の研究に携わってきて、ここ10年の間に開発したプログラムも多数におよびます。プログラミングは重労働なのですが、それ以上にものを書くことは大変な技術と努力を要する作業であり、私にとって昔から苦痛の種でしたが、それでもこつこつと書き続けて、先日とうとうこの分野で5冊目の単行本「最小2乗法,その理論と実際」を上梓することができました。
ご存じの通り、最小2乗法は最適化問題と逆問題の狭間にあるデータ解析法であって、数理モデルのパラメータ推定やカーブフィッティングなどの現実の問題に対し広い応用範囲をもっています。そのため、データ解析に関わる実務家であれば必ず最小2乗法の問題に遭遇するといってよいほどポピュラーな手段になっています。私にとって最小2乗法云々は飯の種でもなんでもありませんが、けっして余技として遊び半分に研究しているわけではなく、このような本を書くのはそのおもしろさを多くの人に教えたいからという動機からにほかなりません。優れた学者は、私がしているような論文以外の雑文を書くなどという堕落は決してしないものなのでしょうが、私にとっては自分のイマジネーションとインスピレーションを作品化し記念碑化することで科学者としてのアイデンティティーを確かめ、自立再生を果たしてきたのです。
石の上にも十年の覚悟で、地道な基礎研究を続けてきたのですが、そのきっかけは、科学の最先端の理論のひとかけらでも垣間みることができたらという想いからでした。小生はもともと数理や論理的な思考が好きなこともあり、いつの頃からか、コンピュータに興味をもつようになりましたが、「データを入れればたちどころに整理され、見やすいグラフに処理される。見やすく処理されることで次のステップへ考えを進めやすくなる。」を実感体験したため、パソコンを研究に活用するようになりました。
このように、私が数理科学に関心をもつようになったのは仕事上の必要性からなのですが、そうなると私の悪い癖で病理学から横すべりしはじめ、いつの間にか本筋から逸脱し首を突っ込んでしまう按配になってしまい、そして、数理科学の魅力にひかれ、いったん、とりこになってしまうと抜け出せずに腰までどっぷりとつかってしまいました。ひさしを貸して母屋をとられるの比喩のごとく、本末転倒してしまったのです。まったく損な性分であると思うし、やっかいな熱病に感染してしまったものだとも思っています。
残念ながら、医学会はほとんど数理には縁がないところで、私は医学界の中では、孤立してぽつねんと一人で数理科学に打ち込んでいるのですが、専門領域間の壁はできるだけ低いほうが自由な思考を妨げないし、その意味で、病理学だけに腐心するのは人生の損失大だという気持ちは変わらず、仕事の幅を少しでも広げようと考えています。いま思うと、数理科学を素通りしてしまうほうがましだったかもしれませんが、そうすれば病理学とはうまくやってはいけたが決して幸せではなかったでしょう。
プログラミングは半分が頭脳労働、半分が論理設計のバグを探しだす肉体労働。きれいなプログラムかどうかは別として、力ずくで労力さえかければ必ずできます。無論、その過程においてストレスがないわけではありませんが、思うがままに組み立てることができたら意味ないし、壁に突き当たって頭を磨り減らして考え込んた末に10倍も速い計算方法や独自の作品をひねりだしたりすれば、時のたつのも忘れ、考え始めると止められなくなってしまいます。既製品を使いこなすことに比べてけっしてなまやさしい作業ではなく、創造の楽しみも苦しみも十分に味わえるのです。
幸いにも、私自身専門のプログラマではないので、ノルマを果たすために厳しくハッパをかけられることも、納期に追われて胃がキリキリと痛むこともなく、いろいろな目的を想定しながら興味と好奇心のおもむくまま丹念に創作できる恵まれた(?)立場にあります。一方で、実験自体を重視するか、解析のための作業に重きをおくかで健全なバランスを欠いているという憾みや悲哀もあるのですが・・・。
ともあれ、自分の刻印を作品に残すことは一種のアートであり楽しみのひとつです。しかし、芸術作品みたいに美学に陶酔しながら大変な時間没頭して作った作品であったとしても、プログラムの場合は常に作り変えられていくので、作品というよりは消耗品といったほうがよく、そのため作品自体が後世に残ることはありません。プログラムの宿命といってしまえばそれまでですが、これまでに開発してきたプログラムが、将来、より充実した数理的方法論を生むための捨て石になり、少しでも多くの人に刺激を与え、多くの方々のお役に立てれば幸甚です。
2.計算機屋かく戦えり
コンピュータにはさまざまの利用の仕方があり、コンピュータなくして日常生活が成り立たない時代になりました。コンピュータはもはやマニアだけが研究目的のためだけに使う時代ではなくなったのですが、残念ながら、私にはコンピュータに関連した研究をしていることで白い眼で見られた経験が幾度となくあります。複雑な現象を解析するためのコンピュータの科学への応用を含め、より広い世界を獲得しようとしているところが趣味的、余技的、遊芸的に見られ、誤解を受けたのだと思いますが、現在でも計算機屋は一般にはまだまだ正しく認識されていないように思われてなりません。
「コンピュータは何かの専門家がその専門知識を使って仕事をするときの道具であり、魔法の機械ではない。したがって、コンピュータにいくらのめり込んでもそこからは各個人が本来学ぼうとしている知識が得られるはずもない。」−−−かつて私もコンピュータは実用面から見ればたかが道具に過ぎないと考えていた一人なのですが、コンピュータの出現と普及は研究にまったく新しい局面をつけ加え、この20年間でコンピュータをめぐる状況はすっかり変わってしまいました。
コンピュータは大量の計算を正確迅速に実行する便利な機械に過ぎないのですが、それまで解けなかった問題を近似的にではあっても解き、視覚に訴えるような結果を与えてくれます。そのため、コンピュータが関係する分野はきわめて広く、自然科学に限らず社会科学の分野まで科学研究全般に利用されていて、コンピュータと全く関係のない分野を探すことは難しいほどです。
つまり、コンピュータ科学という専門領域は各専門分野の境界領域(学際:Grenzgebiet)としての特殊な分野ではなく、科学技術全体を貫く一つの総合科学と見るべき存在となりました。さらに、コンピュータ科学と数学の大部分を含む数理科学という境界のはっきりしない分野も誕生しています。コンピュータ自体にとってもその性能の向上、小型化、価格の低下、普及、用途の拡大などどれをとっても爆発的で、パソコンなしのデータ解析などはもう考えられません。
コンピュータを用いた数値実験とは、モデルとなるシステムを設定してさまざまな現象に関する模擬実験を行なうことですが、実験が不可能な状況下における現象の情報を提供してくれる唯一の手法であり、今後ますます重要性が増すものと考えられています。たとえば、人体のように臓器構成が複雑で直接実験の対象とすることに危険を伴うもの、飛行機の翼のように大規模で実験をするには経費のかさむものに対して、これと類似の構造をコンピュータ内部に実現できればもっとも望ましい条件設定が得られるものと期待できるからです。
現在、コンピュータシミュレーションは実験を行なわなくともシミュレーションで済む問題に汎用されていて、実験と理論につぐ第3の科学(計算機実験学)と呼ばれる分野を開拓し、実験と理論が互いに密接に関係しあって発展してきたこれまでの自然探究の歴史に変革を迫るものとなりました。実際、理論を検証する実験が不可能な分野ではコンピュータを利用して極限状況を模擬実験し、理論と数値シミュレーションによって観測結果を近似することが可能になってきたのですが、三つの分野の研究者たちは必ずしも互いを理解し合って和気あいあいと進んできたわけではありません。
多くの専門分野では実験的発見がその進歩をリードしてきた主体であり、理論や解析法の開発はそれに従属するものですから、世の中にはコンピュータシミュレーションやそれを用いたデータ解析を単なる職人芸とかツブシがきく趣味だとか、あまり好意的には思っていない研究者が圧倒的かと思います。
人は多かれ少なかれ自分の既得権に固執しますから、長年にわたって努力してきた地盤が新しい道具などの出現で揺らいだとき、大半の人は容易に切り替えができないものです。私のごとき三流の研究者が偉そうな口をきくことはしたくないのですが、既得権益を盾にコンピュータの新規参入を自分たちの地盤を食い荒らす侵入者としてかたくなに拒否するのは猫の額に安住しあぐらをかくのと同様ではなかろうかと、しばしばその度量の狭さを感じたものでした。しかし、新参者はこのような風圧を覚悟の上で、ねばり強く頑張るしかありません。
実験屋、理論屋は第3の研究者に対して物事の本質を究めるのに何の役にも立たないと蔑視するものですが、私はコンピュータの存在を大いに重視していて、そのような固定観念や俗見を排し、シミュレーションやコンピュータを利用したデータ解析学が十分な理論的裏付けをもつ第3の科学として市民権を与えられ、従来の科学の枠を超えた科学として確立することを願っています。私の念願は、近頃、自然科学の中でさえも軽視され疎外されているデータ解析学の復権ですが、ともあれ、コンピュータ利用が契機となって、各分野を隔てていた壁が壊され交流が促されていくのは喜ばしいことと感じています。
科学は実験屋、理論屋双方の活躍があって発展してきたことはまず間違いないし、最近ではコンピュータなくして科学の理論的発展が望めなくなったことも確かです。逆に、コンピュータを用いれば何でもでき、したがってまた理論など必要ないと思うのも幻想に過ぎません。コンピュータ利用と理論の有機的な結合が何より重要なことと思われます。