■原子構造の変遷

 原子について考えるとき、小さな電子という惑星が中心にある原子核という太陽の回りを旋回するというイメージをいまも多くの人が思い浮かべますが、この原子模型を示したのは日本の物理学者、長岡半太郎です。ハレー彗星が出現した1910年、人類はまだ原子がどのような構造であるのかさえもよくわかっていなかったのです。原子構造の変遷についてみてみましょう。


1.トムソン模型(電子の発見)

 レントゲンがX線を発見した1895年の2年後、J.J.トムソンは電子を発見しました(1897年)。レントゲンとJ.J.トムソンはこれらの発見によって、それぞれ1901年、1906年ノーベル賞に輝いています。その後も、電子の存在を示すような事実が次々に発見され、さらに電子の電荷と質量の測定に成功するに及んで、電子は最初の基本粒子として実在の物になったのです。

 J.J.トムソンは熱力学のウィリアム・トムソン(後のケルビン卿)の仮定を用いた原子模型を提案しています。その模型では、陽電気を帯びた物体がゼリー状に広がり、その中に多数の電子があって動いているというものでした。このような原子模型は、電子の発見者J.J.トムソンにちなんでトムソン模型と呼ばれます。トムソン模型は「ブドウパン・モデル」の別名でも知られていますが、プラスの電荷をもつものがパンで、電子がその中に点々と散らばっているというわけです。

 今世紀の初めはすべての原子はマイナスの電気をもっている電子を含むことがわかりはじめてきた頃で、原子は中性ですから原子中にはプラスの電気をもつ何物かがなければなりません。当時、多くの研究者が漠然と想像していたのは、正の電荷が一様に分布したものの中に負の電子が浮いているというもので、大部分の物理学者はこのトムソン模型を受け入れていました。


2.長岡・ラザフォード模型(原子核の発見)

 1903年、長岡半太郎は原子は原子核のまわりに何個かの電子がクーロン力に束縛されニュートン力学に従った軌道運動をしている、あたかも、われわれの住んでいる太陽系に似た構造をもっているという素朴な模型(太陽系モデル)を考案しました。

 それが実証されたのは1911年、ラザフォードのα線散乱実験によって原子核の存在が確かめられてからのことです(→【補】)。原子核の近くにおいてα粒子の軌跡は双曲線を描きます(→【補】)。ラザフォードの散乱実験が描いた原子は、原子のほとんど全質量をになう原子核のまわりを電子が円運動しているというもので、原子の中がほとんど空虚であるというのは一種の衝撃でもありました。

 長岡半太郎・ラザフォードの原子模型は、ボーアの原子模型の先駆をなすものでしたが、いくつかの難点があり、円運動をする電子は

a)絶えず電磁波を放出してエネルギーを失う(連続スペクトルを与える)

b)らせん運動をし、ごく短時間に原子核にぶつかり吸収される(不安定である)

はずでした。すなわち、原子は閃光を発してたちまちにして消滅し、物質は跡形もなくこの世から姿を消してしまう−−−これでは大変なことになります。しかし、原子は安定でありかつ原子スペクトルは線スペクトルです。したがって、いかなる原子模型であれ、原子の安定性と線スペクトルを説明できるものでなければなりませんでした。


3.ボーア模型(半古典的量子化原子模型)

 物質の不連続性(原子)、電気の不連続性(電気素量e)に引き続き、エネルギーの不連続性(hν)という自然の秘密は徐々に暴かれてきました。1913年、ボーアはプランクが提案した量子化の概念を原子構造に導入することによって、この難点を解決できることに気づきました。

 ボーアはバルマーやリュードベリのスペクトル系列の公式:

1/λ=R(1/m2 −1/n2

の中に、

a)原子の中には電子が輻射を行わない軌道がある。

b)輻射は電子がある軌道から別の軌道に跳躍するときだけに生じる。

ことを見つけだし、原子自体の微細構造を明らかにしたのです。

 クーロン力という引力と遠心力という離心力の釣り合いだけでなく、量子条件すなわち電子のエネルギーが量子化されていれば、太陽系の衛星と異なり、電子の軌道は任意ではあり得ず、一定半径の軌道上を動くことになり、原子は安定、かつ、原子スペクトルは線スペクトルを与えることを説明することができます。ボーアの理論は原子構造論にとって画期的・革命的な出発点である点は高く評価されます。実際、ボーアの理論が発表されて以来、物理学や化学結合論はこの理論を軸にして発展・展開しました。

 ボーアの円形軌道の理論は水素原子などの1電子原子にしか適用できず、多電子原子に対しては1916年にゾンマーフェルトが軌道に形と傾きという方向性の概念を付け加えた楕円軌道を導入することになりました。これにより、軌道の大きさを決める主量子数のほかに、方位量子数、磁気量子数という2つの新しい量子数が導入されました。のちに、パウリはゼーマン効果(磁場の中でのスペクトル線の分裂)を説明するために、電子にスピンの概念をあてはめ、今日スピン量子数と呼ばれる電子に関する第4の量子数を加わえました。

 このように、初期のボーア模型は徐々に複雑なものとなっていきましたが、より複雑になるにしたがい、初期のエレガントさは徐々に失われてしまいました。原子の中の電子の運動(電子軌道)を古典物理学で説明しようとしたところに本質的な無理があったのです。


4.量子力学的原子模型(電子は二重人格者)

 ボーア・ゾンマーフェルト模型のような半古典的な量子化原子模型でもいろいろな物理化学現象をかなりの程度説明することができたのですが、その後、それでもなおいろいろな不備のあることが次第に明らかになりました。

 1925年、ハイゼンベルグが行列力学を、シュレディンガーが波動力学を提唱しました。ハイゼンベルグは電子が粒子であることを前提とし、行列方程式を導きました。一方、シュレディンガーは電子の波動的性質から波動方程式を導きました。行列力学と波動力学は、別々に独立に存在し、それぞれが前提としていたことが大幅に異なっていたのですが、形式こそ違え、物理的には等値で、「量子力学」という1つの理論を表現していることが証明されました。

 このことは、2つの体系の最初の前提、すなわち行列力学における粒子という見方と波動力学における波動という見方の正当性をも示唆しています。量子力学によって、原子の構造は厳密なものに修正されました。量子力学の教えるところによれば、電子の軌道はボーアの考えたような軌跡を追跡できるものではなく、電子は原子内の任意の点にある存在確率をもって存在しうることを示しています。つまり、電子は単なる粒子でも単なる波でもなく、粒子であると同時に空間に広がる波(wavicle=wave+particle)であって、1個の電子は軌道をもつというよりも原子核を取り巻く雲のような存在であり、電子の確率分布はしばしば電子雲という言葉で呼ばれています。

 このような電子の波動関数は軌道と呼ばれますが、英語ではorbitではなく、orbital(orbitのようなもの)としてその違いを表現し、電子の状態を表す軌道関数につけた名前s,p,d,fとかσ,πなどで呼ばれます(→【補】)。もともとは形容詞であるオービタルという語をあてたのは、電子の軌道が惑星の軌道ほど厳密には描けず、雲状の広がりになっているからです。すなわち、orbitalとは電子の運行する際に描く経路のことではなく、電子の定常波(量子状態)を表していて、orbitとorbitalは似て非なるものです。

 まるで雲をつかむような話ですが、量子力学的原子模型のカギは電子の粒子性と波動性の二重性格が握っていて、量子力学においてプランク定数hを0に外挿した極限が古典力学であり、h→0の極限を考えると粒子のもつ波の性質は消えてしまい古典力学の世界に入り込むことになります。プランク定数をゼロとしてよい極限で、量子論はニュートン力学になるのです。

 電子の運動はニュートンの運動方程式(古典力学)でなく、シュレディンガーの波動方程式(量子力学)によって支配され、波動方程式は粒子性と波動性を同時に説明しうる物理学の基礎式になっているというわけですが、このことを少々哲学でシンボリックに書けば、

  量子力学→古典力学  (h→0)

と表現することができます。

 そして、波動方程式のさまざまの解が徹底的に調べられ、電子の存在確率が計算されるに及んで、原子による光の吸収・発光のスペクトル、化学結合など物質の仕組みに関わる現象、さまざまな物質の電気的・磁気的・光学的・機械的性質などを明確かつ十分満足に説明できるようになったのです。物質の性質は波動方程式にすべて内包されているといっても過言ではなく、電子は理解しにくい二重人格者なのです。


【補】キャベンディッシュ研究所

 当時、ラザフォードは電子を発見したJ.J.トムソンが所長をしていたケンブリッジのキャベンディッシュ研究所の研究員でしたが、原子核を発見し、トムソンの跡をついで、実験物理学の教授になっています。

 キャベンディッシュは既知の質量をもつ2つの物体間にに働く万有引力を初めて実測した人物として人々に記憶されていますが、彼の一族による基金の調達により、キャベンディッシュ研究所が設立されました。キャベンディッシュ研究所は物理学の研究及び教育機関であり、物理学の近代的大発展はこの研究所と切り離すことのできない関係にあります。

 マクスウェル、レイリー卿(アルゴンの発見などで1903年にノーベル物理学賞受賞:本名ウィリアム・ストラット)、J.J.トムソン、ラザフォード、ブラッグ卿などがこの有名な研究所の指導を引き継いでいます。

 ラザフォードは1908年、ノーベル化学賞受賞していますが、キャベンディッシュ研究所はその後もこの分野で多くのノーベル賞受賞者を育み、物理学の中心的な役割を担っています。このようにして、キャベンディッシュ研究所は、原子核物理学における世界の中心的な存在となっていったのですが、ブラッグ卿はこの研究所の所長に就任したとき、過去の栄光にとらわれることなかれ、流行を追うな等々、5項目の注意事項を並べたとされています。

【補】ハレー彗星

 今日では、600個程度の彗星の軌道が知られていますが、半分近くは太陽を焦点とする細長い楕円軌道を運行し、残りのほとんどは放物線を、そして少数のものが双曲線を描いています。放物線や双曲線軌道というと太陽系の外から飛来したようですが、彗星が観測できるようになるのは太陽の近くにきてからであり、木星や土星の重力で軌道が変わってしまうのです。

 すなわち、惑星の軌道は楕円軌道であるのに対し、彗星の軌道は楕円、放物線、双曲線いずれのこともあります。もちろん永久に太陽のまわりを回る彗星は楕円軌道ですが、太陽系内部に一度だけ入って去り、再び回帰しない彗星は放物線または双曲線上を動くとみなされます。

 ハレー彗星は76年周期つまり人間の一生の長さとほぼ同じ周期の細長くのびた楕円軌道になっていて、あまり長くのびているのでニュートンなどは放物線軌道ではないかと思っていたほどです。しかし、76年ごとにやってくることに気づいたのがニュートンの親友ハレーで、ハレーは力学的軌道計算によってハレー彗星の素性を明らかにし、1758年に再び地球に接近することを予告して1742年に没しています。

 回帰する彗星の中では、ハレー彗星は周期が短いほうに属し、一番最近では1986年にやってきました。ハレー彗星のように周期が200年以内の彗星は短周期彗星、日本で有名なイケヤ・セキ彗星などは長周期彗星に分類されます。短周期彗星は現在約120個知られていますが、それらの軌道面は惑星の軌道の近くにあり、木星や土星などの重力で太陽近くに捕らわれたものと考えられています。一方、長周期彗星は惑星の軌道面とは無関係に分布しています。

 人間のタイムスケールは天文学的なタイムスケールよりずっと短いですから、彗星の場合、現実問題として長い時間(とはいっても天文学的には短い期間にすぎない)の観察は所詮無理で、軌道全体にわたる天体観測には限界があり弧の一部が観測されるに過ぎません。一直線上にない3点を通る2次曲線、3点を通る3次曲線はただひとつ存在しますが、それは座標軸の方向が定まっている場合であって、一般には、平面上の任意の位置にある5点が唯一の円錐曲線を決定します。ニュートンは「プリンキピア」のなかで5点を通る円錐曲線の作図法などを案出しながら壮大な天体力学を展開しています。

 円の一部であれば3点を与えれば軌道の大きさと位置を決定できますが、座標軸の方向すら定まっていない一般の円錐曲線では小さな弧だけで軌道全体の大きさを計算することはできません。そのため、天文学者は、軌道がほぼ放物線である場合に、数回の観測だけで、長軸の非常に長い楕円で再び帰ってくるのか、放物線あるいは放物線に近い双曲線であって決して帰ってこないのかを判定するのにしばしば困難を余儀なくされることになります。放物線を一方向に変形すれば楕円になり、反対方向に変形すれば双曲線になるからです。

【補】電子軌道

 全角運動量量子数lに対応する電子状態には、s(l=0),p(l=1),d(l=2),f(l=3)などの記号がついています。その語源は分光学上の特徴、すなわちスペクトル線の現れ方に由来するもので、たとえば、sはsharp(周波数の範囲が極めて狭い)、pはprincipal(中心的な)、dはdiffuse(ぼやけた)、fはfundamental(基本的な)などの頭文字です。以下g,h,i,・・・と続きます。