■現代研究者事情(partV)

 日本経済は最悪の不景気にあり,日本人自身も外国人も,日本の将来についてはかなり悲観的にみている.ところが,どん底のいまになっても,金融業を立て直せば何とかなるんだと考えている人がたくさんいるのには,なんともあきれさせられるばかりである.
 
 いま日本がしなければならないことは,ドロ沼化した金融業の尻ぬぐいばかりではなかろう.新たな発明による市場開拓,それも「新産業革命」と呼ばれるほど大がかりなものが望まれるのであって,日本の将来にとって重要なファクターは製造業だと思う.
 
 大学は以前に比べてすっかりもの作りをしなくなったといわれるが,大学院大学の設置によって予算配分の重点化がなされ,院生の定員も3倍増となった.また,2003年以降,国立大学はエージェンシー化される.これらの構想は,画一均等主義(奇妙な平等主義)を見直そうというものであるが,日本が21世紀に先進国の一員として生き残れるようにと国運を賭けたものとしては,まだまだ不十分で,問題は山積しているのである.
 
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【What's GS? Who should be guilty?】
 
 遅れたアジアの金融システムが国際基準に早く達するようにと日本はビックバンを強要され,元の総理が欧米に圧倒的に有利なグローバルスタンダードを導入したことで,日本経済を国際資本に安値で売り渡す道を開いてしまった.
 
 その結果は,大手銀行だけでも国民総預金の1200兆円を越す2000兆円のデリバティブ(金融派生商品)投資に走らせることになり,国際金融資本は,それを原資として銀行の株価や各国の通貨を操作し,アジアに世界に金融不安をもたらした.デリバティブはハイリスク・ハイリターン.変動が激しく,never coming back で,日本経済はこのままでは破産を避けられないだろう.バブルがはじけた後も,日本のマネーゲーマーには,賭け金を倍々にしていけばギャンブラーは絶対破産しないという必勝のパラドックス
  2^n>2^(n-1)+・・・+4+2+1
が後遺症としてあるのではなかろうか?
 
 グローバルスタンダードの名の下に金融破綻が露呈し,しかも,それは子々孫々の代になっても穴埋めできそうにない.グローバルスタンダードの実体はアングロサクソンスタンダードであり,事実上,日本経済の「金融植民地化」といってもよい.経済にうとい私であるが,研究者とて経済に無関係ではありえない.企業の研究者であればなおさらのことであろう.「第2の敗戦」を招いた日本の政治と金融業については,誰か責任をとれと文句せずにはいられないが,政治家や銀行家には自分が戦犯だという意識がないのであろうか?
 
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【Dr. Nakamura? Who is he?】
 
 近年は大手メーカーの収益であっても,ものを生産して儲けるより,いわゆる財テクで儲けるほうが多くなった.そして,いつのまにか世の中はメーカーからディーラーに,産業資本主義から金融資本主義にと移行し,いわば賭事に夢中になってカネを浪費する時代になっていたのである.だからこそ,日本の将来にとっては金融資本主義から産業資本主義に立ち戻ることが必要であり,そのための重要なファクターは製造業だと思われる.
 
 さて,「Teaching General Chemistry」の日本語版(丸善より邦訳「固体化学」がでている)のまえがきである.
 『日亜化学工業の中村修二氏による青色発光ダイオード(LED)の発見は,この本に関連深い,急速な進展のすばらしい例である.この先駆的な研究成果は,ディスプレイ素子やコンパクトディスクの設計などにおける研究・開発に大きな影響を与えた.』
 
 恥ずかしいことだが,私はこの序文を読むまで,青色発光ダイオードという世界的発明が日本人の手によってなされたということについて何一つとして知らなかった.もっとも,白川先生の導電性プラスチックの研究についても,ノーベル化学賞を受賞することになって初めて知ったわけであるから,無知といわれても仕方がないのであるが,・・・.
 
 導電性プラスチックは,20年以上も前に現代のIT技術の基礎を築いた発明品であって,毎日受けている恩恵に対して,日本人の多くが忘れている.あるいは,初めから教えられなかったのかもしれないが,いずれにせよ,かつて日本は物を作る人間に対する尊敬を失わない国であったはずだ.残念なことに,いまではそれが根底から揺らいでいる.
 
 1993年,当時・日亜化学工業(現・カリフォルニア大学サンタバーバラ校:UCSB)の中村氏が,窒化ガリウムの研究によって世界に先駆けて青色LEDを開発・製品化した.LED(高輝度発光ダイオード)は電流を効率よく光に変換する半導体のこと.消費電力が少ない上,明るい光を放ち,安定で長寿命,交換も半永久的に不要である.
 
 赤や橙,黄色のLEDは早くから実用化されていたのだが,青色LEDがないというのが一番の問題であった.なぜなら,青は光の三原色だからである.しかし,青色LEDは技術的に難しく,20世紀中には実現不可能といわれていた.そのような時代背景があっての中村氏の新発見なのである.
 
 これで,赤・青・緑の光の三原色が揃ったことになる.しかも,LEDは三原色すべてが日本人の発明によるものだ.赤と緑が元・東北大学の西沢潤一博士,青が中村博士に拠っているのである.
 
 実は先週,西沢潤一+中村修二「赤の発見・青の発見」(白日社)を購読したことがこのコラムを書く動機となったのだが,西沢博士は私の地元・仙台ならずとも,ミスター半導体・ミスター光通信として名高い元・東北大学長,一方,中村博士は徳島の中堅企業の無名の研究者に過ぎない.そのコントラストが西沢潤一×中村修二の相乗効果を生んで,この本をより興味深いものにしている.
 
  (1)中村氏が青のLEDに成功したとき,直ちに報告に出かけたのが仙台の西沢氏のもとであり,その場で博士号を授与したいといわれるほど,西沢博士はそれを最大限に賞賛した
  (2)発光ダイオードで信号機やブレーキランプをつくろうとしたときに,日本だけが自分の国の発明発見なのにあまり使われていないのはなぜか.世界は信じ,日本は信じないという謎
  (3)会社は論文を書くには禁止,学会発表も禁止.技術を漏らすだけだから,特許も出してはいけない全部秘密という状況のなか,それを無視して自分の思い通りにやったという逸話
  (4)青色LEDの特許は会社のドル箱となったのだが,退職金は0で,あげくの果てに,もといた会社から提訴される
というエピソードなどは,もの作りをしている反骨の士にとって必読のものとなろう.
 
 日本人には創造性がないとよくいわれるが,そんなことはない.LEDのように光エレクトロニクスの分野では,日本人科学者が大変な貢献をしている.なのにひとりの日本人もこの分野でノーベル賞をもらっていないのは非常に奇妙だという話はよく取りざたされる.その理由については想像するしかないが,ともあれ,私は近い将来(200X年)両博士がノーベル賞を同時受賞するものと信じている.
 
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【Mis-evaluation is guiding much money into the waste-basket!】
 
 研究費を獲得する上では,いいプロポーザルを書いて,いいプレゼンテーションをすることが重要なポイントになるが,問題は仕事ができないのに大きなことを主張する研究者が多すぎることである.なかには,端からごまかしてやろうという輩もいて,研究者のモラルの低下は否めない.
 
 たくさんの研究費を出してもらいながら,それだけの成果を出せないというのは,本人の才能・努力はもちろん何か問題がある.私の研究室の例をあげれば1億円相当の機器が一度も使われることなく,無論,何の成果も生み出さずにお蔵入りしている.これでは粗大ごみの不法投棄よりたちが悪い.モラルハザードはこんなところにも露呈しているのだ.
 
 たった一人の研究者に対して,1億の税金が泣いているとして試算すると,日本ではずいぶん無駄なお金(血税)が支出されていて,お金をドブに捨てているようなものと感じているのは,私ばかりではないだろう.しかも,研究費をもらいさえすればあとは野となれ山となれ式の良心の欠如した研究者ほど,プレゼンテーションは人一倍上手ときているから,まるでドロボウに金を恵んでいるようなものである.
 
 高額の科研費をとったことを自慢する研究者がいるが,自慢すべきは科研費の額ではなく,成し遂げた業績の方であろう.学問の業績を審査する側にとっても,事後評価の方が正当に評価しやすいだろうから,事後評価制度を導入したほうがいいに決まっているが,今後も現行の事前評価制度はそのままなのだろうか? また,研究する側にも,研究費を頂くからにはここで一山あてなければ研究者としてはそれっきり命取りになるんだというくらいの覚悟が必要であり,そのことをしっかりと肝に銘じておくべきだと思う.
 
 それではお前はどうなのだと問われると,あまり人前ではいいたくないことなのだが,私はこれまでずっと研究費ゼロでやってきた.なぜそうしているのかというと,私の在勤している研究所は,病院に併設された公立のがん研究所であり,にもかかわらず,癌とはおよそ無縁のことをやってきたという事情があるからである.したがって,これまで通り自分のライフテーマを継続しようと考えると,研究費ゼロのままでやらざるを得ないというのがせめてもの私の自己規律であり,納税者に対するアカウント(エクスキューズ?)でもある.
 
 もちろん,そのような環境下では風圧は覚悟のうえだし,はぐれ狼になって,肩身の狭い思いをしてまでもやってみる価値があるテーマと考えているからなのであるが,1回限りの人生であるから何でもやってみるべきだし,自分の思い通りにやってみて,それでだめならあきらめもつくだろう.
 
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【What did you create? This is a question about your creativity.】
 
 ライフサイエンスの研究者は往々にしてブランド志向で,むやみやたらと流行を追いたがるし,ときにはDNAの分析装置を工場みたいに何台も並べて,大規模な物量作戦を展開する.しかし,そのようなことが私の性に合うはずがない.
 
 私はこれまで統計学を中心に据えた研究をこじんまりとやってきた,いわば零細の町工場の経営者なのだが,私の場合,進むべき方向を定めるのに,近代統計学100年の歴史を踏まえて,その上に立って初めてサイエンスがどこへいくのかがわかるようになった.それで「非線形」「非正規」の問題をやろうと心に決めたのだが,はやりのことをやらないのはまだ流行していない泥臭いところにこそ大きな獲物があるからだし,後追い研究がいかに無意味かをわかっていたからである.
 
 非線形・非正規問題であれば,主な仕事がパソコンによる計算という極めて不精者向きの仕事である上に,幸い,コンピュータはよく使って得意だったこともある.パソコンは私のような不精者にはうってつけの,しかも,ゼロ査定の身にとってはありがたい維持費無用の実験器具なのである.だからこそ,パソコン一台を手に入れるだけで,何とか研究を続けてくることができたのである.
 
 とはいえ,創造的であることは決してたやすいことではない.創造的な研究というのは,棚からボタ餅を待っているだけではダメであって,次に来るものを次々に模索していく作業である.その間,軸足さえぶれていなければ何でもやってみることはいいことだと思う.ずっとひとつの糸で繋がっていればいいのであって,糸が何らかの形で繋がって発展していれば,それがその人の思想となり考え方となるのだとも思う.
 
 最近,自分がこれまでやってきたことが,一本の糸という意味で,系統的であったという手応えを実感できるようになった.また,自分では結構創造的な仕事をしてきたつもりでいるのだが,私にとっては自分の研究が歴史に残ることよりも,どれだけ世の中の役に立つかが大切なポイントであって,具体的な点でもずいぶん貢献できたと自負している昨今である.
 
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