大学は独創性の高い研究をめざすための研究および教育機関と位置づけられていますが、最近の大学ではどちらも有効に機能していないことが指摘され、半官半民化構想が打ち出されている昨今です。そこで、パートUでは大学における最近の研究に焦点を定めて問題点をいくつか洗い出してみることにしました。深刻な問題を話題にしているのですが、大風呂敷を広げて正面切って論ずるというよりも雑談風・業界物語風に書いてみました。その中で現在の科学や科学者がおかれている状況を多少とも感じて頂けたら幸いです。
科学論文には間違ったものがいくらでもあるといったら驚かれるかもしれませんが、これはいわば功を争うあまりの勇み足であり、日本でも科学研究分野でのガセネタやスキャンダルがないわけではありません。科学者はこれまで科学研究上の誤りに対して、科学者同士で相互批判しあうことによって排除してきたのですが、近年は自浄努力が少し揺らいできたようです。
私はライフサイエンス(生命科学)の分野に属する研究者ですが、生命科学者の現状を考える上で、ひとつのキーとなるのはその数の多さです。今日、生命科学に集中しているほどの科学者がひとつの分野に集中したことは人類史上かつてないことでした。どうして生命科学にこれだけの数の科学者が集中したのかは、生命科学の発展と近代の医療分化のありかたとが関係していると思われますが、ひとつの分野に科学者が集中すると必然的に激しい競争が展開されることになります。
各研究者のサバイバルをかけた生存競争は、生産性の向上のみならずモラルの低下にも繋がりますから、まったくうその報告文を書く科学者も出現するし、ネイチャー誌などファッショナブルな科学雑誌になればなるほど虚偽報告の頻度も高くなるという始末です。一度、誤りの集積と化した生命科学はもう一度立ち直ることができるのでしょうか? 大袈裟かもしれませんが、生命科学はその人気とはうらはらに、とても危険な状態だと思い心配でなりません。
1つのことを数十年間も続けるのは並大抵のことではありません。若い研究者は学位(博士号)をとるために研究しているようなもので、惜しいことに10年も研究すれば研究テーマあるいは研究そのものを終了させてしまいます。その研究成果は幾篇かの論文になって学会誌を飾り、その結果として学位を手に入れるというわけです。
研究が長続きしないのは、教育の高度化に伴って、とくに何もやりたいことのない者が大学院に残るようになったこととも無縁ではないでしょう。かつて私自身も大学をレジャーランドのひとつと考えているろくでなし大学院生だったわけですが、大学院生にしてみれば教授のいうことをきかないと就職のチャンスにありつけなくなります。そのため、ここは教授の子分になるほうが得策だという打算が働き、いつも教授の顔色をうかがって、研究テーマも結論さえも教授にあてがわれるままというタイプの研究者しか育たなくなってしまいます。こうなれば学問は縮小再生産、封建的・権力指向的で暗い雰囲気が日本中の研究室をおおうことになってしまいます。
私は大学院生の頃には研究の最終目的は良い研究をすることで、報告文はその結果として書くのであると思っていました。ところが、数年もしないうちに、論文というのは宣伝であって、サイエンティストゲームで生き延びるためには効果的な宣伝を続けなければならないのだと知りました。
憎まれ口かもしれませんが、大学では誤った業績主義、すなわち質より量をめざす論文の粗製濫造的生産活動に過剰な価値を与えているために独創性は阻まれ、学問の細分化を促進することによって学問そのものの希薄化を招く風土と化し、結果として大学の没落を加速させているという深刻な危機感、悲観的な意見もあることは事実です。まことに、耳が痛くなるような話です。
私の在籍した医学分野に限ってのことかもしれませんが、大学の研究者たちは最先端と呼ばれる研究分野に関わっていないと乗り遅れる不安にかられるらしいし、実際、先端研究と銘打たないと政府や企業の援助も受けられません。そのため、最近では時代の流れに沿った華やかな研究のみをすればよいという考えが浸透し、肝心のアイデアやシナリオを欠いた表層的、短期的、場当たり的、近視眼的で上すべりがちな研究におわれて、学問自身からも疎外された論文生産機械になっていると表現してもよいでしょう。
学位を審査する教授さえも学会論文の数で評価される時代ですから、「先端的研究イコール短絡的研究」ということになってしまいます。私のごとき三流の研究者が偉そうな口をきくことはしたくないのですが、このように考えているのは私ばかりではないでしょう。科学研究も人間の営みである以上、流行には逆らえないし、研究者社会でのはやりすたりの激しさはまさにファッション並ですが、流行は1年ももたないのが世の常で、熱はすぐに冷めきってしまいます。突破口の切り開きをどこに求めたらよいのか−−−これはいつの時代にも普遍的な課題なのでしょうが、一時のブームに翻弄されず、しっかりと自分を律しあせらず次のステップへの独創的なブレークスルーをめざしたいものです。
科学技術が高度に発達すると専門分科が進み、分野ごとに高い壁を張り巡らせて閉じられた世界と化すため、研究者の視野は狭くなる傾向があります。この自閉症的な傾向はタコツボ専門化と称され、研究者は専攻外を敬遠し、保守主義に徹する偏屈で孤独なタコとなってしまいます。このように、専門家が象牙の塔の周囲に厚い壁を作って権威を誇り、他分野のことに関知しないようなムードはあまりいただけません。自分と無関係な学問から実りある刺激をうけることも珍しくありませんから、研究者自身がもっと遠くを見る視点を手に入れる努力をしないと、一生タコツボの中で終わってしまうことにもなりかねません。
私は自然科学領域の研究者ですが、自然そのものにはわれわれの専門分野のような境界がなく、その意味で自然の理解を深めるには境界領域とか学際的と呼ばれる形の研究を進めなければならなりません。数学、物理学、化学、生物学、遺伝学、心理学、経済学、情報科学、言語学、免疫学、コンピュータ科学などで対象となっていたテーマに細分化された各専門を越えて横断的に取り込んでいこうとする学際性を重んじた研究が奨励されるようになってきましたが、独創的な科学研究を目指すには、専門分野にとらわれることなく柔軟な姿勢で積極的に専攻外の知識も融合すること、広い視野にたってかけ離れた分野の素養を身につけることが要求されます。もはや、狭い殻に閉じこもってはいられないのです。大学人は同僚との激しい競争の中で成長しますが、それは森の中の木のようなもので、細いままで上に伸びていくしかありません。あらゆる方向に十分枝を伸ばしながら研究しようということで、現在多くの大学では多分野にわたる教官が協力しあって、一つのテーマについての授業を進める総合科学が開講されているのもそのためであろうと思います。
現在の環境下では困難が多いとは思いますが、いたずらに流行を追うのではなく、石の上にも三年といわず十年の覚悟で地道な基礎研究を続け、狭い分野に閉じこもらず、堅い頭を柔軟にして科学の職人として自然の基本的な仕組みを追及したいものです。
1998年10月14日の著者