■現代研究者事情(PARTT)

 まず、自己紹介から始めるのがスジでしょう。私は地方の研究所に勤務する一介の研究員です。自分の仕事をよく見せるための宣伝や派手なパフォーマンスなどとはおよそ無縁の人間ですから、学会発表などで自分をアピールすることがステータスになるなどという発想は私には似合わないし、しばしば戦闘的で政治的な能力がないとすまされない大学生活よりも、象牙の塔でのんびりと科学研究をやるほうを選び、現在研究所に在勤しています。旧帝大系であればともかく、地方研究所では予算的に潤沢ではありませんが、それでも、時間がたっぷりと与えられることには満足しています。とはいっても、研究業績の査定がなされるので、あまりのんびりとやっているわけにもいきませんが・・・。

 研究者にはいろいろなタイプがあります。19世紀の著名な化学者オストワルドは、研究者をその研究姿勢から2つに類別しています。古典型と浪漫型の2型ですが、前者は不可能な夢は追わずに短期間に解決できそうな問題を優先に取り組む研究者であり、後者は瑣末な問題には目もくれずあくまで夢を可能な形にもっていこうとする研究者です。さらに、問題の詳細を突き詰めて考えていく虫の眼型、より広い観点から見渡して進むべき方向を見定める鳥の眼型、狭い世界に閉じこまって自分とは無関係な学問と絶縁する微分型、自分の学問とはかけ離れた分野を(完全には理解できないまでも)その重要性だけは認識できる積分型など様々です。

このように書くと、研究者とは超然としていて浮き世離れした人種のように思われがちですが、現実には弱さとか卑劣さとかが満ち満ちていて、結構、他人からの評価、たとえば、「▲は非常に立派な人物であったが、率直にいって■はそうではなかった。自己宣伝ばかりでね。・・・」などという噂話を気にしながら、うじうじ想いをめぐらせているのです。

 現代の研究者はもっと多様となり、どの方向に価値を見いだすかによって芸術家・職人型、政治家・役人型、教師・評論家型、マネージャー・アナウンサー型などに分類できるかと思われます。マネージャー・アナウンサー型といっても決してばかにしているわけではなく、それぞれ学問の発展のために必要な役割を担っていることに変わりはありません。自分自身が重要視している方向性からこのような多種多彩なサブタイプに分けられるわけですが、一方において、その評価は十把ひとからげになされてしまいますから、研究者には(研究者ならずとも)評価の問題がつきまとうことになります。

 大学であれ研究所であれ、自己規律の一貫として、自らの業績(主として、研究業績)に対しての評価が求められます。評価は公平でなければならないし、公平であるためには客観的な数字というのが次にきます。研究業績の評価を数値化するためには、とりあえず、論文数や被引用数が使われます。そのため、論文の粗製濫造にともなう研究の質の低下の問題やさしたる論文でなくとも昔なじみの間柄同士でお互いに引用し合うなど、点数かせぎの問題がついてまわります。その反面、研究の独創性や創造性が評価の対象とされることはほとんどないといってもよく、学生教育など研究業績以外のものに至っては評価はまったくなされないというのが実状でしょう。私の経験でも、優れた独創性を発揮する名馬は多いものの、そのような研究環境下においては名伯楽は少なく、素質をもちながらも陰に隠れて不当に低く評価されている、あるいは正当な評価を妨げられた逸材がその才能を発揮することなく埋もれてしまっていることもしばしばみうけられました。

 日本の研究者は海外の論文をわずかに拡張したり、これまでの論文をリアレンジして論文の数を増やすことばかり考えていて、そのためオリジナリティがないとか、アメリカのまねばかりやってきたといわれます。現実に、ある人たちにとっては論文をたくさん書いて(大量粗製濫造して)大学教授になることが人生の目的でさえあり得るのです。自分で考え、自分と直結したものしか論文にしないというような純粋な科学との携わり方もあるのでしょうが、そのような研究者は滑り落ちてしまうのも事実なのです。

 公平正当な評価をしてくれる全能の神がいてほしいものですが、それは望むべくもありません。ともあれ、否定ばかりしていたのでは希望のひとかけらも生命力もありませんから、自分がその場にいるとき、自分の行動を投げやりにもニヒリズムにもならないで完結できる人間になるしかないようです。