■最速降下線(その9)
【1】石けん膜と極小曲面
19世紀のベルギーの物理学者プラトーは,石けん膜に関する面白い実験結果を報告しました.その実験によれば,針金で輪をつくれば,それがどんな形の囲いであっても,必ず石けん膜が張られるというものです(1873年).
物理的には,石けん膜では表面張力によって表面積最小の曲面が実現します.もし,輪をひねって立体的な形にしたものを石けん液に浸して引き上げると,そこの複雑な形の曲面ができることになりますが,その場合でも針金の枠のなかでは最小の表面積をもった膜が実現し,こうして一定の枠のなかにできる最小面積の曲面の形が決定できるわけです.
プラトーによって提起された問題は,いい換えれば,閉曲線を境界とする最小表面積の曲面を求める変分問題に他なりません.これに対する数学的な問題は,3次元ユークリッド空間の中に任意の閉曲線Cを与えたとき,Cを境界とする極小曲面は,どんな閉曲線に対しても存在するかどうかという問題となり,プラトー問題として知られるようになりました.プラトー問題の解は物理的には石けん膜として存在しますが,数学的には極小曲面の存在証明がなされたわけではないのです.
極小曲面の存在と一意性を扱うこの問題は,1930〜1931年,アメリカの数学者ダグラスとハンガリーの数学者ラドーによって独立に解決されました.この業績により,ダグラスは1936年に第1回フィールズ賞を受賞しています.
懸垂面は極小曲面(表面積最小曲面)の重要な例ですが,常螺旋面,エネッパー曲面,シェルク曲面など,極小曲面については非常に多くの例と結果が知られています.
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【2】シャボン玉と平均曲率一定曲面
石けん膜の数学的定式化として,極小曲面がありますが,石けん膜といえば,シャボン玉を思う浮かべる方も多いと思われます.しかし,シャボン玉は極小曲面ではありません.シャボン玉は中の空気が閉じこめられていて,その容積が変わらないという条件のもとで,面積の変分問題に対応しています.
ところで,シャボン玉はなぜ丸いのでしょうか? はしがきで述べた等周不等式
S^3≧36πV^2
に関係していることは直感的に発想できるでしょうが,球面はその自明な解です.また,極小曲面が石けん膜であったとき,膜の両側の気圧は等しい状態にあるのですが,膜の両側に気圧差があれば,シャボン玉の中の気圧と表面張力のバランスで半径が決まることになります.
曲面の各点で曲がり方が最もきつい方向と緩やかな方向がありますが,平均曲率とは2方向の曲率の相加平均で定義されます.実は,体積固定の表面積の変分問題は,平均曲率一定曲面に対応しています.すなわち,平均曲率が一定(≠0)の曲面は,体積一定のまま表面積を最小にすることによって得られますが,球面はその自明な例です.また,平均曲率が恒等的に0である曲面は極小曲面と呼ばれ,これがプラトー問題の数学的な定式化でした.
前述したように,回転面で極小曲面は懸垂面(カテノイド)に限られたのですが,回転面で平均曲率一定曲面は球面とは限りません.このような曲面はドローネー曲面と呼ばれていますが,1841年,ドローネーは,平均曲率一定の回転面をすべて決定し,それが平面・円柱面・球面・懸垂面・アンデュロイド・ノドイドに分類されることを示しました.
また,ホップの予想「球面がただひとつの閉じた平均曲率一定曲面である」は正しいと思われていたのですが,1984年,ヴェンテによって,球面とは異なる平均曲率一定曲面の反例が発見されたのを契機に,平均曲率一定曲面の研究は大きな進展をみせることとなりました.
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【3】擬球面上の幾何学
曲面の曲がり方を測る尺度としては,平均曲率のほかにも,ガウス曲率があります.ガウス曲率は曲率の最大値と最小値の積で定義されますが,ガウス曲率は非ユークリッド幾何学発展の基礎として重要です.
たとえば,正の定(ガウス)曲率をもつ回転面としては,半円を回転させた球があるのに対して,負の定曲率回転面としては追跡線:
x=a(logtan|θ/2|+cosθ),y=asinθ
を回転してできる擬球面があります.
前術したカテナリー(懸垂線)の伸開線が,トラクトリックス(追跡線)であって,追跡線上の点とその点での接線がx軸と交わる点との距離aは常に一定です.この性質が追跡線というこの曲線の名前の由来で,ある長さのひもの先に石を結びつけて引っ張りながらx軸上を歩くと,石は常に引く人の方向に向かって進みますから,石の通る軌跡が追跡線になります.石を犬に置き換えると,追跡線は犬の散歩をするときの曲線ですから,別名,犬線あるいは犬曲線とも呼ばれています.
擬球は追跡線をx軸のまわりに回転して得られる回転体で,2つのラッパを広い方の口のところで張り合わせたような格好になっていて,交わるところで滑らかでありません.また,x軸の±方向に無限に伸びている部分がありますから,非コンパクトです.球とは似ても似つかないのですが,擬球という名前はどこから来ているのでしょうか?
追跡線の方程式:
x=a(logtan|θ/2|+cosθ),y=asinθ
と,原点を中心とする半径aの円の方程式:
x=acosθ,y=asinθ
を比べてみましょう.x座標のalogtan|θ/2|が異なるだけです.ですから,両者にはかなり似ている性質があるのではないかと思われます.実際,以下の対応関係をみると,非常に似た関係にあることがわかります.
トラクトリックス 円
回転体は擬球 ←→ 回転体は球
回転体の断面積(πa^2) ←→ 円の面積(πa^2)
回転体の表面積(4πa^2) ←→ 球の表面積(4πa^2)
回転体の体積(4/3πa^3) ←→ 球の体積(4/3πa^3)
追跡線をx軸(漸近線)のまわりに回転すると,ガウス曲率が負で一定の曲面(擬球面)ができます.定数aをその擬半径といいますが,このように球と比較してみると,名前の由来がうなづけます.
ところで,曲面上の2点を結ぶ最短の線を直線とみなせば,驚いたことに,この擬球面上の幾何学はユークリッド幾何学の平行線の公理を「直線外の1点を通り,その直線に平行な直線は無数に存在する」によって取り替えて導かれる双曲的非ユークリッド幾何学と同じになります.双曲的非ユークリッド幾何学はボヤイとロバチェフスキーがそれぞれ独立に,しかも同じ時期に発見したもので,擬球面は,非ユークリッド幾何を3次元ユークリッド空間内の曲面として実現させている曲面なのです.
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