2007年4月15日,オイラー生誕300年を迎えた.オイラーはゼータの生みの親である.また,1915年頃,ヒルベルトとポリアはゼータ関数の零点をスペクトルとして解釈することを提唱し,ゼータ関数論もスペクトルとの関わりが重要と認識されるに至った.このことは跡公式をゼータ関数の明示公式の類似とみなすことと同値である.
跡公式とは非可換版のポアソンの和公式であり,数論的にみれば,素数とゼータの零点を橋渡しする公式の総称で,具体的には,
Σf(p)=Σf~(λ)
の形の等式として書くことができる.ここで,f~はfから決まり,逆にfもf~から定まるフーリエ変換みたいなものである.
線形代数では,対称行列の固有値問題
Ax=λx
においては,対称行列は対角化可能で実数の固有値をもつことや
trA=Σλ
すなわち,行列Aにおいて対角和=固有値の和であることを学ぶが,跡公式とはtrA=Σλの左辺が解析的,右辺が幾何学的に得られたものであるように,ある作用素の跡を2通りの方法で計算することにより得られる等式であって,作用素とはいわば無限次行列のことと考えておくとよいと思われる.また,2通りに計算するということを喩えていうならば,家計簿つけでまず行ごとの合計を求めそれを総計する,次に列ごとの合計を求めそれを総計する,そして計算が正しければその2つの計算結果は一致するはずというわけである.
今回のコラムでは,跡公式の歴史の概略について調べてみるが,跡公式は波と粒子からはじまっていて,粒子と波は互いにフーリエ変換で結びついているのである.
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【1】量子力学的原子模型(電子は二重人格者)
1925年,ハイゼンベルグが行列力学を,シュレディンガーが波動力学を提唱しました.ハイゼンベルグは電子が粒子であることを前提とし,行列方程式を導きました.一方,シュレディンガーは電子の波動的性質から波動方程式を導きました.行列力学と波動力学は,別々に独立に存在し,それぞれが前提としていたことが大幅に異なっていたのですが,形式こそ違え,物理的には等値で,「量子力学」という1つの理論を表現していることが証明されました.
このことは,2つの体系の最初の前提,すなわち行列力学における粒子という見方と波動力学における波動という見方の正当性をも示唆しています.量子力学によって,原子の構造は厳密なものに修正されました.量子力学の教えるところによれば,電子の軌道はボーアの考えたような軌跡を追跡できるものではなく,電子は原子内の任意の点にある存在確率をもって存在しうることを示しています.つまり,電子は単なる粒子でも単なる波でもなく,粒子であると同時に空間に広がる波(wavicle=wave+particle)であって,1個の電子は軌道をもつというよりも原子核を取り巻く雲のような存在であり,電子の確率分布はしばしば電子雲という言葉で呼ばれています.
量子力学的原子模型のカギは電子の粒子性と波動性の二重性格が握っていて,量子力学においてプランク定数hを0に外挿した極限が古典力学であり,h→0の極限を考えると粒子のもつ波の性質は消えてしまい古典力学の世界に入り込むことになります.このことを少々哲学でシンボリックに書けば,
量子力学→古典力学 (h→0)
と表現することができます.このことはまた,
粒子に関する和=波に関する和(粒子性=波動性)
古典力学的描像=量子力学的描像
と解釈できます.粒子と波は互いに跡公式(フーリエ変換のようなもの,無限次元空間の直交変換で,違う方向から見ること)で結びついているのです.
まるで雲をつかむような話ですが,粒子と波の双対性について,一旦説明を聞いてしまえば跡公式の両辺(粒子に関する和=波に関する和)が一致することに何の違和感も感じないかもしれません.しかし,見た目には似てもにつかない2つのものをはじめて等しく解釈した人にとってはこの普通でない結びつきに驚かざるを得なかっただろうと想像されます.
リーマンゼータから重要な性質の一部である素数定理がでることを想起すれば,粒子性=波動性は
素数密度=量子状態のスペクトル密度
を示唆しています.正規分布のフーリエ変換は再び正規分布になりますが,まったく無関係に思われるヤコビの恒等式
θ(1/t)=√tθ(t)
も,オイラー積=アダマール積
Π(1−p^(-s))^(-1)=−π^(-s/2)/s(1−s)Π(1−s/λ)
も同じ範疇に属する公式であるということになります.
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【2】ヤコビの恒等式(ポアソンの和公式)
1+2exp(−π/t)+2exp(−4π/t)+2exp(−9π/t)+・・・=√t(1+2exp(−πt)+2exp(−4πt)+2exp(−9πt)+・・・
Σexp(−πm^2/t)=√tΣexp(−πm^2t)
すなわち,
θ(t)=Σexp(−πm^2t)
とおくと,テータ関数に関するヤコビの恒等式(1829年)
θ(1/t)=√tθ(t)
が成り立ちます.
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これが跡公式のはじまりと考えられていますが,量子力学の発見はヤコビ(あるいはポアソン)とセルバーグの2つの跡公式の間に位置しています.跡公式がどこから来たか,オイラーまで遡ってみることにしましょう.
オイラーは1744年,史上初めて代数関数
π(1/2-x)=Σsin(2πnx)/n
を三角関数で表しています.ここでx=1/4とおけばライプニッツ級数
Σ(-1)^(n-1)/(2n+1)=π/4
がπ/4を表すという事実の別証明が得られます.また,この式はオイラー・マクローリンの公式の基礎となり,ポアソンの和公式も導き出されます.
Σf(i)=∫(1,n)f(x)dx+1/2{f(n)+f(1)}+2Σ∫(1,n)f(x)cos2πmxdx
Σf(i)=1/2{f(p)+f(q)}+Σ∫(p,q)f(x)exp(2πimx)dx
∫(p,q)f(x)exp(2πimx)dx={f(q)-f(p)}/2πim-{f'(q)-f'(p)}/(2πim)^2+∫(p,q)f''(x)exp(2πimx)dx/(2πim)^2
ポアソンの和公式が応用される級数としてはテータ関数が上げられます.
θ(y)=Σexp(-πn^2t)=1+2Σexp(-πn^2y) (y>0)
ζ(s)の重要な性質(の一部)は,テータ関数に関するヤコビの恒等式
Σexp(−πm^2/t)=√tΣexp(−πm^2t)
すなわち,
θ(t)=Σexp(−πm^2t)
とおくと,
θ(1/t)=√tθ(t)
およびガンマ関数
Γ(s)=∫(0,∞)t^(s-1)exp(−t)dt
から導出されます.
これらを用いると
ξ(s)=π^(-s/2)Γ(s/2)ζ(s)
=∫(0,∞)1/2{θ(t)−1}t^(s/2-1)dt
=π^(-(1-s)/2)Γ((1-s)/2)ζ(1−s)
より,関数等式
ξ(s)=ξ(1−s)
が得られます.
sを複素変数とするとき,関数等式
ζ(s)=π^(s-1/2)Γ((1-s)/2)/Γ(s/2)ζ(1-s)
を用いればζ(s)をs=1(極)を除くすべての複素数に対して意味をもたせることができ,sを−1とすると値が−1/12,2とすると値が0になるというわけです.Γはガンマ関数です.
また,
ξ(s)=1/2s(s-1)π^(-s/2)Γ(s/2)ζ(s)
あるいは
ξ(s)=π^(-s/2)Γ(s/2)ζ(s)
で定義すると
ξ(s)=ξ(1-s)
のように完全に左右対称な美しい形に書くことができます.
関数等式は
(1)sを複素変数として複素全平面への解析接続を与えることができること
(2)ζ(s)がRe(s)=1/2を対称軸とする美しい対称性をもっていること
を示しています.
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ゼータ関数は,オイラーの積表示
ζ(s)=Π(1−p^(-s))^(-1)
を通して素数分布=#{n|素数p≦x}の問題に関係してきます.オイラーはオイラー積表示の関係式を用いて,素数が無限個あること,しかも自然数の中で相当な割合で現れるという事実を証明をしたのですが,これはギリシャ数学の単なる別証ではなく,その後の数学の発展に繋がるものだったのです.
そして,有名な素数定理(PT)は,漸近分布の形で
π(x)〜x/logx
と表すことができます.素数は無限個存在し,そして等差数列{a+kn}にも素数は無限に含まれるのですが,素数pでa+knの形のものの分布問題がディリクレの算術級数定理です.
π(x;a,n)〜C・x/logx C=1/φ(n)
算術級数定理は素数定理を精密化したもので,初項aの取り方にはよらないのですが,ここで,オイラーの関数φ(n)は1からn−1までの整数のうち,nと互いに素になるものの個数
φ(n)=#(Z/nZ)
として定義されます.たとえば,n=7の場合,1,2,3,4,5,6なのでφ(7)=6,n=10の場合1,3,7,9がそうなのでφ(10)=4となります.
1760年頃,オイラーは,数nが素因数p,q,r,・・・をもつときに,それらの重複度にかかわらず,
φ(n)=n(1−1/p)(1−1/q)(1−1/r)・・・
であることを示しました.この原理は「エラトステネスのふるい」によっているのですが,たとえば,10=2・5,44=2^2・11,100=2^2・5^2より,
φ(10)=10(1−1/2)(1−1/5)=4
φ(44)=44(1−1/2)(1−1/11)=20
φ(100)=100(1−1/2)(1−1/5)=40
また,任意の素数pに対して,
φ(p^n)=p^n(1−1/p)
したがって,
φ(p)=p(1−1/p)=p−1
となります.
なお,算術級数定理の証明にはディリクレのL関数
L(s,χ)=Π(1−χ(p)p^(-s))^(-1)
χは乗法群(Z/nZ)の1次元表現
が用いられます.
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【3】セルバーグの跡公式
跡公式はリーマン面上の積分作用素の跡(trace)を2通りに計算して等号で結んだ式です.種数が1のリーマン面(トーラス)の場合,跡公式はポアソンの和公式(ヤコビのテータ変換公式)になり,これはセルバーグの跡公式の可換版と考えることができます.
種数が2以上のリーマン面の跡公式は1951年,セルバーグによって確立されました.リーマン面としては負定曲率のコンパクト面を考えるのが最もわかりやすいのですが,跡公式のひとつの原型が非コンパクト型対称空間(特に上半平面)とそれに作用する離散群に対して,1956年,セルバーグにより定式化されたものです.跡公式がその美しさを最も発揮するのが負の定曲率曲面の場合で,セルバーグが重点的に扱ったのもリーマン面上の調和解析としての跡公式でした.
R^2(曲率0) H^2(曲率−1)
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Δ=∂^2/∂x^2+∂^2/∂y^2 Δ=-1/y^2(∂^2/∂x^2+∂^2/∂y^2)
長方形とその面積 基本領域とその面積
ポアソンの和公式 セルバーグ跡公式
リーマンゼータ関数 セルバーグゼータ関数
すなわち,上半平面Hでユークリッドラプラシアンに対応するものが双曲的ラプラシアンと呼ばれる作用素であり,R^2におけるリーマンゼータ関数に対応するものがセルバーグゼータ関数,ポアソンの和公式に対応するものがセルバーグの跡公式という対応になっていると考えられます.
セルバーグ以来,跡公式については数多くの拡張および応用が得られています.跡公式は等スペクトル多様体の構成においても有用な役割を果たすのですが,跡公式の守備範囲はそれだけにはとどまりません.
セルバーグの仕事の中でも暗示されているように,スペクトル問題は数論と類似する構造をもっていて,ゼータ関数あるいはL関数の幾何学的類似物をラプラシアンの固有値や閉測地線の長さの分布から構成することができます.そうすれば,リーマン面のゼータ関数であるセルバーグ・ゼータ関数はリーマン予想の類似物となり,数論におけるリーマン予想は幾何学的にはラプラシアンの小さい固有値の非存在の問題になるのです.以下に,対応表を掲げておきますが,R^2(曲率0)における直線やS^2(曲率1)における大円が測地線です.
数論 幾何学
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代数体 コンパクトなリーマン多様体
素イデアル 素な閉測地線
素数定理 素な閉測地線の長さ分布の密度定理
リーマン予想 ラプラシアンの小さい固有値の非存在
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【4】グッツヴィラーの跡公式
セルバーグはゼータ関数の零点をスペクトルとして解釈すること,跡公式をゼータ関数の明示公式の類似とみなすことを考えて跡公式を導きました.セルバーグは
粒子に関する和=波に関する和(粒子性=波動性)
古典力学的描像=量子力学的描像
すなわち,量子的なスペクトルを理解するためには古典的な周期軌道を知ることでできるというように考えて跡公式を導いたわけではありません.
セルバーグの跡公式はポアソンの和公式の非可換群への拡張を与えていて,一般の跡公式は非可換版のポアソンの和公式とみることができます.セルバーグの跡公式の漸近版がグッツヴィラーの跡公式なのですが,グッツヴィラーの跡公式は明らかに「量子的なスペクトルを理解するためには古典的な周期軌道を知ることでできる」という狙いをもって開発されたものです.
量子カオスの理論はIBM研究所のグッツヴィラーによって導かれてた跡公式を基礎として発展しています.グッツヴィラーの跡公式は古典系のすべての周期軌道を用いれば非可積分系の固有エネルギーを予測できるという周期軌道理論の公式です.
リーマン・ゼータ関数の零点の最近接間隔分布がランダム行列のGUEの間隔分布と一致するという事実はすでにコラム「ゼータ関数の零点分布と量子カオス」のなかで紹介しましたが,グッツヴィラーによるこの周期軌道数の分布則もリーマン・ゼータ関数の零点密度とそっくりな形をしているなど,量子カオスの問題は跡公式(trace formula)を媒介として数論の問題にも転化するのです.
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