行列式を既知の読者には(その1)(その2)は歯がゆかったかもしれないが,そのような読者はグラフの固有値やスペクトルについて勉強されてみては如何であろう.
(その2)で述べたようにグラフの隣接行列では結ぶ辺の有無を(0,1)で表したものが一般的である.すなわち,
結ぶ辺があるとき・・・1
結ぶ辺がないとき・・・0
それ自身のとき・・・・0
である.
たとえば,
1 3 2
・−・−・
のようにラベルしたグラフの隣接行列は
[0,0,1]
B=[0,0,1]
[1,1,0]
となる.(1,2)要素は0であるから1←→2を結ぶ道はないが,(1,3)は1であるから1←→3を結ぶ道が存在するというわけである.また,それ自身のとき0であるから,主対角線要素はすべて0となる.このようにグラフは行列の形で表現できるので,グラフ論は行列論とみなすこともできるのである.
実はこの例は
[参]仁平政一・西尾義典「グラフ理論序説」,プレアデス出版
に掲載されているものである.この書籍は基礎的な考え方をしっかり身につけるためにはもってこいと思われた.今回のコラムではこのうってつけの一冊を紹介するとともに,その力を借りてグラフ論に対する理解を深めていくことにしたい.
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【1】隣接行列のベキ乗
この隣接行列を2乗すると
[1,1,0]
B^2=[1,1,0]
[0,0,2]
となるが,このことは何を意味するのだろうか? (1,2)要素は1,(3,3)は2であるが,これは長さ2の道の数に一致している.一般にB^nの(i,j)要素はi←→jの長さnの道の数になっているのである.
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【2】隣接行列の固有値
位数kのグラフの固有値は隣接行列の固有値,すなわち,固有多項式
Φ=det(λI−B)=0
の解λで与えられる.冒頭に掲げたグラフの固有多項式は
| λ, 0,−1|
Φ=| 0, λ,−1|=λ^3−2λ
|−1,−1, λ|
で,固有値は0,±√2と計算される.
グラフに異なるラベルを付けても固有値は同じになる.
1 2 3
・−・−・
のようにラベルしたグラフの隣接行列は
[0,1,0]
B=[1,0,1]
[0,1,0]
となるから
| λ,−1, 0|
Φ=|−1, λ,−1|=λ^3−2λ
| 0,−1, λ|
固有値λはすべて実数でその和は0となる.
Σλi=0
また,グラフが連結なとき,最大次数をΔとすると
|λ|≦Δ
となる.冒頭の例ではΔ=2である.
また,隣接行列Bの固有値をλ1,・・・,λkとすると,B^nの固有値は
λ1^n,・・・,λk^n
となる.このことから長さnの道の数は
tr(B^n)=Σλi^n
であることがわかる.
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【3】重要なグラフのスペクトル
行列と固有値,グラフとそれを表す固有値との間には密接な関係がある.冒頭のグラフ例で説明するが,グラフGのスペクトルを重複度を含めて
Spec(G)=[ √2, 0,−√2]
[ 1, 1, 1]
と表すことにする.
(1)完全グラフ:位数kのグラフでどの2点も隣接しているとき完全グラフという.それには正k角形+すべての対角線をイメージすればよく,v=k,e=kC2である.その隣接行列は
[0,1,・・・,1,1]
[1,0,・・・,1,1]
B=[・・・・・・・・・・・]
[1,1,・・・,0,1]
[1,1,・・・,1,0]
したがって,固有多項式は
|λ,−1,・・・,−1,−1|
|−1,λ,・・・,−1,−1|
Φ=|・・・・・・・・・・・・・・|
|−1,−1,・・・,λ,−1|
|−1,−1,・・・,−1,λ|
となる.
これは(その1)に掲げた巡回行列式であるから,ζを1の原始k乗根(すなわちk乗してはじめて1になる複素数)とすると
Φ=Π(λ−ζ^i−・・・−ζ^(k-1)i) (i=0~k-1)
で表される.(i=0~k-1)であるから右辺はk個の整式の積となり,Φ=0はλに関するk次方程式となる.このことより
Spec(G)=[k−1, −1]
[ 1 ,k−1]
が得られる.
(2)閉路グラフ:正k角形をイメージすればよく,v=k,e=kである.その隣接行列は
[0,1,0,・・・,0,1]
[1,0,1,・・・,0,0]
B=[0,1,0,・・・,0,0]
[・・・・・・・・・・・・・]
[1,0,0,・・・,1,0]
したがって,固有多項式は
|λ,−1,0,・・・,0,−1|
|−1,λ,−1,・・・,0,0|
Φ=|0,−1,λ,・・・・,0,0|
|・・・・・・・・・・・・・・・|
|−1,0,0,・・・,−1,λ|
となる.
これも巡回行列式であり,
Spec(G)=[2cos(2πi/k)]
[ 1 ] (i=0~k-1)
(3)道: 1 2 3・・・・・k−1 k
・−・−・−・−・−・−・−・
この隣接行列は
[0,1,0,・・・,0,0]
[1,0,1,・・・,0,0]
B=[0,1,0,・・・,0,0]
[・・・・・・・・・・・・・]
[0,0,0,・・・,1,0]
したがって,固有多項式は
|λ,−1,0,・・・,0,0|
|−1,λ,−1,・・,0,0|
Φ=|0,−1,λ,・・・,0,0|
|・・・・・・・・・・・・・・|
|0,0,0,・・・,−1,λ|
となる.
3重対角行列式より,
Spec(G)=[2cos(2πi/(k+1))]
[ 1 ] (i=0~k-1)
(4)完全2部グラフ:位数p対位数qの総当たりをイメージしてもらいたい.結果だけ書くと
Spec(G)=[ √pq, 0, −√pq]
[ 1, p+q−2, 1]
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【4】グラフのラプラシアン
次数行列D={dij}とは
dii=degi(次数),dij=0(i≠j)
と定めたものである.たとえば,冒頭のグラフ例では
[1,0,0]
D=[0,1,0]
[0,0,2]
位数4の完全グラフでは
[3,0,0,0]
D=[0,3,0,0]
[0,0,3,0]
[0,0,0,3]
また,グラフGのラプラシアンΔGを
ΔG=次数行列D−隣接行列B
で定義する.冒頭のグラフでは
[ 1, 0,−1]
ΔG=D−B=[ 0, 1,−1]
[−1,−1, 2]
位数4の完全グラフでは
[0,1,1,1]
B=[1,0,1,1]
[1,1,0,1]
[1,1,1,0]
より
[3,−1,−1,−1]
ΔG=[−1,3,−1,−1]
[−1,−1,3,−1]
[−1,−1,−1,3]
そのスペクトルをSpec(ΔG)とすると,
(1)完全グラフ
Spec(ΔG)=[ k, 0]
[k−1,1]
(2)閉路グラフ
Spec(ΔG)=[2−2cos(2πi/k)]
[ 1 ] (i=1~k)
(3)道
Spec(ΔG)=[2−2cos(πi/k)]
[ 1 ] (i=1~k)
(4)完全2部グラフ
Spec(ΔG)=[p+q, p, q, 0]
[ 1 ,q−1,p−1,1]
で与えられる.
位数kのグラフのラプラシアンΔの固有値をμとすると
0≦μ≦k
となる.
[注]隣接行列でなく推移行列を使ってラプラシアンを定義することもある.
ΔG=単位行列I−推移行列P
ラプラシアンの定義は文献によって異なる場合があるので注意を要する.
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【5】グラフの等スペクトル問題
ここでは
(1)Spec(G1)=Spec(G2)かつG1≠G2
(2)Spec(ΔG1)=Spec(ΔG2)かつG1≠G2
であることが起こるかどうかを問題とする.(2)が本来の意味での等スペクトル問題である.
(1)では固有値がともに同一となるが,同一ではないグラフの例として
3 6 3
・ ・ ・
1 2/|\5 6 |\2/|
・−・ | ・−・ | ・ |
\|/ |/|\|
・ ・ | ・
4 5 ・ 4
1
[0,1,0,0,0,0] [0,1,0,0,0,0]
[1,0,1,1,0,0] [1,0,1,1,1,1]
G1 =[0,1,0,1,1,0] G2 =[0,1,0,1,0,0]
[0,1,1,0,1,0] [0,1,1,0,0,0]
[0,0,1,1,0,1] [0,1,0,0,0,1]
[0,0,0,0,1,0] [0,1,0,0,1,0]
Φ=λ^6−7λ^4−4λ^3+7λ^2+4λ−1=0
固有値はともに{-1.903・・・,-1,-1,0.193・・・,2.706・・・}となる.
(2)に対しても,固有値が同一となるもののグラフは同一ではない例が知られている.たとえばΔG=I−Pと定義した場合,固有値がともに{0,(9-√17)/8,1,1,(9+√17)/8,7/4}となるが,同一ではないグラフの例として
3 6 3
・ ・−−−・
1 2/ \5 6 | 2 |
・−・−−−・−・ | ・ |
\ / |/ \|
・ 5・−−−・4
4 \ /
・
1
[0,1,0,0,0,0] [0,0,0,1,1,0]
[1,0,1,1,1,0] [0,0,0,1,1,0]
B1 =[0,1,0,0,1,0] B2 =[0,0,0,1,0,1]
[0,1,0,0,1,0] [1,1,1,0,1,0]
[0,1,1,1,0,1] [1,1,0,1,0,1]
[0,0,0,0,1,0] [0,0,1,0,1,0]
[0,1,0,0,0,0] [0,0,0,1/2,1/2,0]
[1/4,0,1/4,1/4,1/4,0] [0,0,0,1/2,1/2,0]
P1 =[0,1/2,0,0,1/2,0] P2 =[0,0,0,1/2,0,1/2]
[0,1/2,0,0,1/2,0] [1/4,1/4,1/4,0,1/4,0]
[0,1/4,1/4,1/4,0,1/4] [1/4,1/4,0,1/4,0,1/4]
[0,0,0,0,1,0] [0,0,1/2,0,1/2,0]
[1,−1,0,0,0,0]
[-1/4,1,-1/4,-1/4,-1/4,0]
ΔG1 =[0,-1/2,1,0,-1/2,0]
[0,-1/2,0,1,-1/2,0]
[0,-1/4,-1/4,-1/4,1,-1/4]
[0,0,0,0,−1,1]
[1,0,0,-1/2,-1/2,0]
[0,1,0,-1/2,-1/2,0]
ΔG2 =[0,0,1,-1/2,0,-1/2]
[-1/4,-1/4,-1/4,1,-1/4,0]
[-1/4,-1/4,0,-1/4,1,-1/4]
[0,0,-1/2,0,-1/2,1]
この例でΔG=D−Bと定義した場合は,等スペクトルとはならない.
[1,0,0,0,0,0] [2,0,0,0,0,0]
[0,4,0,0,0,0] [0,2,0,0,0,0]
D1 =[0,0,2,0,0,0] D2 =[0,0,2,0,0,1]
[0,0,0,2,0,0] [0,0,0,4,0,0]
[0,0,0,0,4,0] [0,0,0,0,4,0]
[0,0,0,0,0,1] [0,0,0,0,0,2]
[ 1,−1, 0, 0, 0, 0]
[−1, 4,−1,−1,−1, 0]
ΔG1 =[ 0,−1, 2, 0,−1, 0]
[ 0,−1, 0, 2,−1, 0]
[ 0,−1,−1,−1, 4,−1]
[ 0, 0, 0, 0,−1, 1]
[ 2, 0, 0,−1,−1, 0]
[ 0, 2 0,−1,−1, 0]
ΔG2 =[ 0, 0, 2,−1, 0,−1]
[−1,−1,−1, 4,−1, 0]
[−1,−1, 0,−1, 4,−1]
[ 0, 0,−1, 0,−1, 2]
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【6】カッツの問題
これまでグラフのラプラシアンやそのスペクトル幾何など離散の世界の話をして参りましたが,連続の世界への応用に関してはコラム「幾何の問題(PartU)」「格子上の確率論(その8)」「幾何学と数論の相互転化」に「カッツの問題」が収録されているので,参考になるものと思われます.
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[1]ラプラシアンのスペクトル
カッツの問題では,膜の振動の情報から太鼓の形がわかるだろうかという連続の世界の問題を扱います.太鼓の形を与えて太鼓の音を求める問題を順問題と呼びますが,これに対して,「太鼓の音を聞いて太鼓の形を推定する」問題は,逆問題の一例としてよく取り上げられるものです.
実際,1次元(弦)ならば,その音を聞いて弦の形,すなわち,弦の長さを推定することができます.もっとも材質が違えば音色は異なるわけですが,この場合は音色ではなく,音の周波数(スペクトル)だけを問題とすることにします.それならば2次元の外周が固定された膜ではどうでしょうか?(ディリクレ問題)
この物理問題は,ある図形に対してそのラプラシアンの固有値を考えるという数学的問題となります.ラプラシアンの固有値とは,ある関数fについて,
Δf=λf
となるようなλのことであって,逆にいうと,ラプラシアンの固有値が図形を知るための手がかりとなるのです.
線形代数では,対称行列の固有値問題
Ax=λx
においては,対称行列は対角化可能で実数の固有値をもつことを学びますが,ラプラシアンの固有値問題において,スペクトルとは固有値(とその一般化したもの)のことであり,対称行列の固有値・固有ベクトルに対応するものは,ラプラシアンのスペクトル分解と呼ばれます.
固有値全体の集合をスペクトルというわけですが,スペクトルとは固有値と連続スペクトルの全体を指します.連続スペクトルとは,固有値と同じ式を満たすものでありながら,固有関数が必要条件(2乗可積分性)を満たさないため,固有値とは認められないものです.非コンパクト面(曲面の中に無限に伸びている部分がある場合)では,連続スペクトルが存在することが知られています.
また,関数fを固有関数と呼びますが,fを基本領域上の関数に限定することにより,固有値の分布に面白い性質が現れます.たとえば,一辺の長さがそれぞれa,bの長方形を基本領域とするディリクレ問題(外周が固定された膜)では,
固有値: π^2(m^2/a^2+n^2/b^2)
固有関数:sin(mπx/a)sin(nπx/b)
で与えられます.
(証明)
スケール・パラメータa,bを取り払って,単位正方形内で考えることにするが,この基本領域はトーラス面と同一視される.トーラス上の関数はx,yを整数だけ動かしても値が変わらないという性質をもつから,固有関数は
f=exp{2πi(mx+ny)} (m,nは整数)
という形になり,
Δf=4π^2(m^2+n^2)f
したがって,固有値は
λ=4π^2×(平方数の和)
という形をしており,固有値分布は平方数の和の分布と同じになる.
すなわち,固有値がとびとびの値をとるという離散性が示されましたが,この辺の事情はボーアの原子模型の話に通じるものがあります.なお,弦の振動では
λ=c×n^2/a^2
直方体の振動系では
λ=c×(l^2/a^2+m^2/b^2+n^2/c^2)
となり,すべて同じような特徴をもっていることに気付かれます.また,矩形領域(弦の場合を含む)では固有関数は三角関数で表されましたが,円板や球の場合は,ベッセル関数を用いれば具体的に解を求めることができます.
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[2]固有値の漸近分布
ここで,固有値を小さい順に並べたn番目の固有値λnが,nとともにどのように大きくなるのか,固有値の漸近分布について考えてみることにします.
N(λ)=#{n|λn≦λ}
すなわち,λ以下の固有値λnの個数の分布関数に着目すると,
π^2(m^2/a^2+n^2/b^2)≦λ,m≧1,n≧1
したがって,λ→∞のとき,
(1/√λ)^2N(λ)→(楕円の面積)
であり,楕円に含まれる格子点の個数となることが理解されます.ここに現れたような格子点数の計算は,一般に「数の幾何学」と呼ばれ,ミンコフスキーに始まるものです.
同様にして,d次元の超直方体ではその(超)体積をVdとして,
Nd(λ) 〜 cdVdλ^(d/2) (λ→∞)
が成り立つことが理解されます.固有値の数の増大のしかたは,次元とともに指数関数的に増大するのですが,(2次元)曲面では
N(λ) 〜 cλ
したがって,固有値はλのほぼ比例して存在することになります.
ここで,c=cdは次元dのみに依存する定数ですが,
cd=(2π)^(-d)π^(d/2)/Γ(d/2+1)
すなわち,λ→∞のとき,
Nd(λ) 〜 (2π)^(-d)π^(d/2)/Γ(d/2+1)Vdλ^(d/2)
で表されるというのが,ワイルの公式の特別な場合です.
なお,半径1のd次元超球の体積は,
vd=π^(d/2)/(d/2)!=π^(d/2)/Γ(d/2+1)
で与えられますから,ワイルの公式は
Nd(λ) 〜 (2π)^(-d)vdVdλ^(d/2) 〜 Cλ^(d/2)
と書くこともできます.
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[3]太鼓の形を聴きとれるか? (等スペクトル問題)
Δf=λf
の固有値
λ1≦λ2≦λ3≦・・・
が固有振動数を与え,対応する固有関数
φ1,φ2,φ3,・・・
がそれぞれの固有振動数で振動する膜の変位の様子を与えてくれます.
ワイルの定理とは,いわば「太鼓の音を聴けばその面積がわかる」というものですが,ここでは,歴史背景に思いを馳せてみましょう.1910年代,ワイルは太鼓の音からその面積を推定することが可能であることを証明しました(ワイルの法則).
また,1930年代には音から周の長さも決定できることが示されました.
Nd(λ) 〜 cdVdλ^(d/2)−cd-1/4Ad-1/4λ^((d-1)/2)
ここで,Ad-1はd次元多様体Vdの表面積を表します.
面積や周長だけから正確に定義できる図形は円だけなので,円形の太鼓ならば音からその大きさを決定できることが解ったわけですが,しかし,面積も周長も等しいが形の異なる太鼓が,同じ音をもっているなどということがあり得るだろうか?という一般的な疑問には答えることができませんでした.
1960年代になると,カッツは「ドラムの形は聴き分けられるか?」
M. Kac, Can one hear the shape of a drum?, Amer. Math. Monthly, 73(1966),1-23
という論文を発表しました.カッツの問題とは,漸近挙動
Nd(λ) 〜 cdVdλ^(d/2)
をもっと詳しく調べれば,太鼓の形についての幾何学的情報がすべて得られないだろうか?という問いかけです.カッツが提出した等スペクトル問題は,数学論文としてはめずらしく魅力的なタイトルがものをいって,大きな注目を集めこの問題を解こうという研究を大きく促すきっかけとなりました.等スペクトル問題は逆問題の特殊な例になっていて,この論文のタイトルが逆問題の有名な標語(スローガン)になったというわけです.
カッツの論文により「太鼓の音から,その面積,周の長さ,穴の数が聴きとれる」ことが示されたのですが,これらの成果にもかかわらず,境界の形が円であるのか楕円であるのか,四角形か多角形かなのか,面の正確な形が推測できるかというさらに一般的な疑問には答えられませんでした.これが,マッキーンやシンガーなどの人々を触発し,その後の研究が展開する契機となりました.
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数学者は1次元・2次元・3次元という一般的な空間だけにとらわれません.無限次元さえ考えるのですが,1964年,ミルナーは幾何学的には異なるけれども同じ音を出す16次元のドラムのペアを発見しました.また,別の数学者は異なる次元での例を発見しましたが,長い間,2次元の世界でそのようなペアを探しだすことはできませんでした.
カッツの提出した「音で太鼓の形が聞き分けられるか?」という有名な問題については,ミルナーなどによる否定的な研究がありましたが,1984年,砂田利一は等スペクトル多様体をほとんど思うがままに作り出す画期的な方法を発見し,これによって低次元の反例を作り出すことが可能になりました.
T.Sunada, Riemannian coverings and isospectral manifolds, Ann. Math., 121(1985), 248-277
そして,1991年には大きな進展がありました.ゴードンとその夫ウェッブは,ウォルポートからヒントを得て,面積と周長は等しいけれども形の違う,けれども同じ音をもつ2次元・3次元のペアを探し出すことに成功したのです.
C.Gordon,D.Webb and S.Wolport, Isospectral plane domains.and surfaces via Riemannian orbits, Invent. Math., 110(1192), 1-22
また,現在知られている最も単純な2次元図形はチャップマンによる8つの角をもつ図形です.
S.J.Chapman, Drums that sound the same, Amer. Math. Monthly, 102(1995), 124-138
[参]浦川肇「ラプラス作用素とネットワーク」,裳華房
にはこれらの図形が図入りで詳しく書かれています.とはいえ,新たな問題も浮かび上がっています.たとえば,もっと単純な構造をもつもの,あるいは,滑らかな境界をもつドラムのペアは存在するであろうか? 等々.スペクトル幾何学の研究はやっと始まったばかりで,まだ多くの問題が残されているのです.
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