■パイオニアの資質

 日本人には創造性がないとよくいわれるが、そんなことはない。八木アンテナ(テレビのアンテナ)、岡部マグネトロン(電子レンジ)などは、実験設備も十分でない環境にもかかわらず、先進国の研究に先だってなされたオリジナルな成果の例である。しかし、これらの世界的発明が日本人の手によってなされたということ、そしてこれらの発明品によって毎日受けている恩恵に対しても、日本人の多くが忘れている。あるいは初めから教えられなかったのかもしれないが、不思議なことに、八木アンテナや岡部マグネトロンは国内よりも海外でその能力が高く評価され、実用化に近づいてからあわてて逆輸入されたという経緯をもっている。

 これらの発明が国内で認められなかったという事情は、日本人社会がその仲間の独創性を認めないという性癖の表れではないだろうか? すなわち、お互いの足の引っ張り合いをし、でる杭は打つ。人の欠点を指摘してよいところは決して褒めない。その結果、公平正当な評価ができない。−−−日本人がパイオニアになるために欠けているのは、創造性ではなく、他人の突出を許さないという狭小な精神構造(島国根性)なのだと私は思う。

 

 かつて日本は物を作る人間に対する尊敬を失わない国であった。ところが、近年は大手メーカーの収益であっても、ものを生産して儲けるよりいわゆる財テクで儲けるほうが多くなった。いつのまにか世の中は産業資本主義から金融資本主義に移行し、いわば賭事に夢中になってカネを浪費する時代になっていたのである。経済にはまったくうとい私であるが、これは大変なことだと思った。はたせるかな、バブルの大崩壊が起こった。

 

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 第2次大戦で戦艦大和を生み零戦を創りだして世界の第一線におどりでた兵器産業に比べ、家電製品や自動車など民生品の部門は地味な存在であった。終戦以前、これらの民生部門の進歩に対する日本人の貢献はなきに等しかったのに、戦後、最先端技術の実物を見た日本の技術者は数年間でほとんど同じような製品をコピーしてしまった。日本の技術陣はおどろいたことに徹底的な調査の上、そっくりそのままコピーして国内のメーカーに作らせてしまったのである。国家復興のためならば何をやっても構わないという風潮の中のことだが、盗作行為で日本の国際的信用を落としたことは否定できない。自らの危険を冒さず、他人の成果を盗むのは利益を上げるには割のいい効率的なやり方だったが、日本の後進性を如実に露呈した出来事であった。

 

 当時の日本はけっして一流工業国ではなく、made in Japan という言葉には「安かろう悪かろう」という軽蔑の響きさえあった時代なのだ。世界には日本以上の先進工業国は多かったのに、難しい製品を技術供与も受けず作れたのは日本人だけだった。日本人はまねが上手だという声に対しては、くやしければまねてみろといいたいところだが、おおっぴらに自慢するにはどうしても抵抗がある。家電製品、自動車、半導体、カメラなど日本が得意にしている産業分野の大部分は、よその国で開発して売れることがはっきりしていた製品をコピーして大量生産することで立ち上がったからだ。

 

 開発のリスクが少ないやり方は、途上国が工業化する過程で避けて通れない道であって、技術提携して教えてもらってもなお難しい技術を、実物と文献を調べるだけでコピーしてしまったのは世界に誇ってもいい能力だろう。しかし、先進国になってからも新しいお手本をコピーするかその延長線上でしか新しいことができないというのでは先進の2字がなく。われわれはもうそろそろ基礎的な原理からすべて自前で作り上げた何かで世界に貢献してもいい時期だと思う。そうなったときに初めて、日本人のまねる能力は独創性の一部だといって、遠慮なく自慢できるのではないだろうか。

 

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 日本は明治維新以来、欧米へのキャッチアップを目標に国造りしてきたといわれるが、基礎研究軽視という状況はこうしたキャッチアップ構造が科学技術分野にもしっかり組み込まれていることの証左であろう。科学技術の分野で次に何が時代の潮流になるのか、いつでも欧米に手本を求めればよかった。ところが、日本がハイテクで欧米を急追し、世界経済に大きな影響をもちはじめると、日本は欧米から基礎研究成果にただ乗りしていると批判される。皮肉なことに1990年代にバブルが崩壊し日本経済が傾きはじめるとただ乗り批判はほとんど聞かれなくなった。経済的な勢いを失った日本が、もはや脅威とは感じられなくなったというのが真相だろう。しかし、欧米の批判がなくなったとしても、日本の科学技術の特異な姿が解消したわけではない。現に、わが国は基礎研究に対する投資をなおざりにしており、経済大国となった今日でも途上国並である。成果を急ぎ基礎部分の投資を軽んずるのは日本人の性格ともいえるが、種を蒔いて育てる苦労については考えることさえせず、きれいな花だけはつみとりたいというあまりに無邪気で虫のいい考え方には首をひねるほかない。

 

 戦後の復興を支えたのは、日本人の几帳面な性格とひたすら経済的効率を求めるやり方にあった。現在の日本を支える工業製品のなかで、日本人が基礎原理から考え、損を覚悟で投資しながら発展させた部分が非常に少ないことは常識であり、われわれは、欧米の産業界が切り開いた安全保証付きの産業分野にだけ入っていき、持ち前の器用さを発揮して大量生産するやり方で成功してきたのである。もちろんこれはだれにもまねできることではないし、日本人の優れた資質には違いないのだが、自分で種を蒔かない工業大国の繁栄がいつまでも続くと思わない方がいいだろう。まねをしたとなると、それは未知の領域に踏み込んだことにはならず、成功が保障されている事業に手をつけたのに過ぎない。つまり、成功するかどうかわからないという一番大切な部分を欠いている事業だったのである。

 

 工業立国としての日本の21世紀の繁栄が明治以来の発想を転換できるかどうかにかかっていることはほぼ間違いない。日本人が他国に追随するだけの国民でなく、創造性をもつ国民であるなら、失敗するかもしれない、成功がまだ先進国で実証されていないような新しい企画に乗り出すべきであろう。しかし、どの分野においても、リスクを背負うことなしにプロジェクトを立ち上げることはできない相談である。プロジェクトを実行しようとするとき、リスクを避けるために安全策だけをとって万事否定的な観点でしか物事を見ないならば、物事は成就しないであろう。かといって、プロジェクト自体に惚れ込んでいるという情熱のみでも成功は難しい。自分の情熱に賭けるだけではリスクは避けられないからである。すなわち、情熱を失わず、冷静にマイナス要因を克服していったときにはじめて夢が現実になるのである。企業家であれ技術屋であれ、マイナス思考から入るかプラス思考から入るか、それぞれの人間の個性が現れるところであるが、パイオニアの資質とは、マイナス要因をなんとかプラスにもっていこうと果敢かつタフにチャレンジするかどうかに拠っているのであろう。

 

 とはいっても、国民性はそうすぐには変わらないし、正直いって、わたしはあまり期待していない。科学技術の発達は、積み重ねられた経験と優れた発想の中に実を結ぶものであるから、拙速効率主義でトライアル・アンド・エラーのエラーを許さない日本の技術開発環境はきまじめすぎて、パイオニアたるには不向きなのかもしれない。