■「ケプラーの法則」余聞


 ギリシア時代の天文学では、惑星は地球の周りを等速円運動すると考えられていました。神の創造した世界は完全な調和の世界であり、完全なる図形である円こそが神の世界にふさわしいとされたのです。したがって、当時の常識としては、「幾何学における神聖な作図とは定規とコンパスという基本的な2つの道具だけしか使わないものであって、直線と円の世界から外れるものは不純である。したがって、神秘的であるべきすべての天体の運動は円とその組み合わせによって支配される(周転円説→【補】)。」という思想があり、惑星は地球の位置とは少しずれた中心の円の上を運動する(離心円)とか、その円軌道上を小さく円を描きながら動く(周転円)とか工夫して惑星の運動を説明しようとしましたため、非常に複雑なものとなってしまいました。天動説を否定して地動説を唱えたコペルニクスでさえも、太陽を中心に離心円と周転円を組み合わせることで惑星運動の原理を説明しています。

 パラダイムシフト(発想法の転換)が必要であったのですが、ケプラーはこの思想の壁を破って「惑星は楕円軌道を描き、太陽はそのひとつの焦点にある」に到達したのです。答えを知っている私たちから見れば常識のように思っている法則なのですが、それまで支配的であった見方・考え方を克服して確立されたもので、必ず何らかの美しい法則がこの宇宙を支配しているという強烈な思い入れ(狂信?)がケプラーの法則の発見へとつながったわけです。科学思想の背景をふまえながら、ケプラーが法則を発見するに至る道筋を振り返ってみることにしましょう。


1.ケプラーの失敗

 16世紀から17世紀にかけてのヨーロッパは近代科学の成立期です。コペルニクスは天動説を覆して地動説を唱え、それを受けついだのがガリレオとケプラーです。ケプラーの時代、天文学(アストロノミー)は星の運行の観測術にすぎなかったのに対して、占星術(アストロロジー)は星の運行の法則の学でありました。ロゴス(論理・学)はノモス(慣習・術)より上位にあり、したがって、当時は占星術のほうが格上とみなされていたことになり、天文学といっても一種の術にすぎませんでした。術から学への転換移行は近代の出発を物語りますが、それはケプラーの手によったのです。

 ケプラーは地動説をもとに惑星の運動法則を発見し、惑星の軌道が楕円であることを発見しました。姓ではなく名前のほうが良く知られているガリレオ・ガリレイは大砲の弾道が放物線になるなど、地上の物体の運動の研究で大きな仕事を成し遂げました。ガリレオは非常に分析的な推論をを好み、法則を一般的考察から推測し、次にそれを実験で検証しましたが、理論(現象のモデル)が実験に先行したという意味で近代科学の先駆者といわれています。ケプラーはそういうタイプとは違って、以下に示すエピソードのように非常に想像力豊かなむしろ空想的な人であったようです。

 凸型正多面体は正4・6・8・12・20面体の5種類あって5種類しかないことはプラトンの時代にはすでに見つけられていて、それらがプラトンの自然哲学で重要な役割を演ずるところから、正多面体はプラトンの立体(Platonic solid)とも呼ばれています。正多面体はピタゴラス学派には神秘的完全性の象徴のように見え、ギリシャの自然哲学者はこれらを5元素と対応させています。

 ケプラーは惑星運動の法則を発見した天文学者として有名ですが、著名な数学者でもありました。事実、星形正多面体と呼ばれる凹型多面体の発見は彼の大きな業績です。ケプラーは「宇宙の神秘」(1596年)、「新天文学」(1609年)、「世界の調和」(1619年)という三部作を著していますが、非常にピタゴラスとプラトンびいきであって世界は数学的な調和、幾何学的秩序に従っていると確信し、彼の初期の著作「宇宙の神秘」では、太陽系の惑星の軌道を無数にある立体の中で明確な法則性をもっている立体(5種類の凸型正多面体)で幾何学的に説明しようとしていたことはよく知られています。

 当時、惑星は水金地火木土の6つしかないといわれていて、水星から土星までの間に5カ所の隙間ができますが、惑星の軌道は5種類の正多面体を次々同一の中心をもつ6個の球面に外接させて得られる、すなわち、この隙間に5つしかないプラトンの正多面体をすっぽりと入れ込むことができると主張しました。もちろん、ケプラーの法則を発見する以前の話で、天王星、海王星、冥王星の存在を知らなかったのです(→【補】)。

 ケプラーは「宇宙の神秘」を「天空に宿る広大な神の意志を私は信じる」でむすんでいますが、世界を統一原理で理解しようとしたケプラーは、超がつくほどのピタゴラス・プラトン主義者であり、「宇宙の神秘」から23年後の「世界の調和」の中で速く回転する天体ほど高い音を発し、その結果、天球全体が一つの音楽を奏ででいると考え、ピタゴラス音階による天球の音楽について一層詳細な論を展開しています。

 ケプラーの考えを非科学的なこじつけということはやさしく、今日から見れば、真理・正論ではないにしろ、正多面体やピタゴラス音階を宇宙論に導入したケプラーの美しい考え方<宇宙の調和論>には驚かされます。ケプラーが取り組んだ惑星系の幾何学構造は、いいかえれば惑星軌道は量子化されているというもので、これと似た振る舞いは原子の中の電子に見られます。電子の軌道は離散的、すなわち、とびとびの値しかとることができないのです。

 数秘術という語がありますが、科学の歴史を振り返ると多分に神秘的な思想から導かれた数値の間の関係が後の大発見の端緒となった例は少なくありません。ケプラーの第3法則、水素のスペクトル線のバルマー系列の公式などがその典型例です(→【補】)。太陽系の構造に数値的な意味をもたせようとした研究者はケプラー唯一人ではなく、もう一人の研究者がボーデです。惑星の距離に関するボーデの法則(→【補】)は、この系列の欠番の位置に新惑星が発見されたことから大騒ぎになりました。惑星の配置を表すボーデの法則と呼ばれる簡単な数列が太陽から惑星までの距離をほぼ正確に予測しているという事実は、太陽系の創生期に作用した必然的な構造原理なのでしょうか、それとも、単なる偶然の所産であって無意味なものなのでしょうか。海王星、冥王星にはよく当てはまらないことから法則そのものが疑わしいともいえますが、少なくとも惑星発見の指導原理として歴史的には大きな役割を果たした数秘術の例となっています。


2.ケプラーの幸運

 太陽系の構造を5種類の凸型正多面体で説明することに失敗した後、天文学者ケプラーは、ティコ・ブラーエが資料として残してくれた20年にわたる膨大で精確無比な天文観測記録を試行錯誤的に数値計算し、25年も費やして火星の軌道を執拗に模索しました。ケプラーは後年、この苦心談を「マルス(火星)との悪戦苦闘」と表現しています。

 しかし、その結果は、「惑星の軌道は太陽を中心とする円軌道である」とするコペルニクスの地動説に反するものでした。そこで、彼は円軌道という前提に疑問をいだき、これに合う理論を求めてケプラーの法則に到達します(1609年)。

<第1法則>惑星は太陽を焦点のひとつとする楕円軌道上を動く。

<第2法則>面積速度は一定である(角運動量保存則)。

<第3法則>公転周期の2乗は平均距離の3乗に比例する。

すなわち、惑星の軌道は完全無欠な円ではなく楕円であり、太陽はその一つの焦点の位置にあるとすることによって矛盾が解決されることを導き出したのです。

 ケプラーの法則の発見には、火星の公転周期と地球の公転周期の最小公倍数の年数の観測が必要になり、それがティコ・ブラーエの行なった約20年分の観測データに当たります。ティコ・ブラーエの観測結果を手に入れられたこと自体が幸運だったのですが、観測の対象として火星を選んだことが、まことに幸運な選択でした。楕円がどのくらいひしゃげているかを表す指標が離心率です。離心率が増すにつれて楕円はより押しつぶされた形になり、極端な楕円を描く惑星が水星(離心率:0.206)と冥王星(離心率:0.249)です。水星は0.206でかなり大きいのですが、あまりにも太陽に近いために太陽の光にさえぎられてなかなか観測が難しく、また、天王星、海王星、冥王星はケプラーの時代からずっとあとに発見されました。金星と地球の離心率はそれぞれ0.00678,0.0167で、0つまり円に近いわけです。ところが、火星の離心率は0.093で、地球よりだいぶ大きく、地球の外側にあるので観測しやすい惑星でもありました。

 ケプラーは、最初、火星の軌道は中心が偏った円軌道(偏心円)であるという仮定から出発したのですが、偏心円軌道では惑星間の距離が自分の理論に合わないことに気がつき、その後、軌道は円ではなく、ある種の卵形ではないかと思うようになり、観測結果から惑星は太陽を一つの焦点とする楕円軌道上を動くという仮説をたてざるを得ないと考えるようになったのです。楕円軌道ではその形を決める離心率が小さい場合、中心が偏った円軌道(偏心円)とのあいだにごくわずかな差しか見られないのですが、火星は偏心円軌道からのずれをはっきり示し、惑星の軌道は偏心円ではなく楕円であるという結論を得ることができたのは火星の小さいが重要なずれのおかげです。軌道が円に近い他の惑星だったら気がつかなかったのではないかと思われるのですが、ちなみに当時発見されていた他の惑星の離心率をみてみると木星は0.048、土星は0.056です。火星の軌道は円とはかけ離れていることが幸いしたといってよいでしょう。

 コペルニクスの地動説(heliocentric theory:太陽中心体系)はそれまで宇宙の中心と信じられてきた地球(geocentric theory)を一つの惑星と考え、地球中心のモデルを捨て去り太陽中心体系を確立することによって、地球を自己中心的な位置から解放しました。そして、ケプラーが円の呪縛すなわち完全な等速円運動に固執するコペルニクス・ドグマを断ち切ったのです。

 惑星の軌道は完全な円ではなく離心率のごく小さな楕円を描き(不等速楕円運動)、太陽はその楕円の1つの焦点の位置にあるわけですが、偏心率の大きな楕円を描く惑星が火星だったというわけです。


3.重力の謎(ケプラーからニュートンへ)

 ケプラーの法則の発見は天文学の歴史の中における輝かしい発見であるばかりでなく、ニュートンやライプニッツによりほとんど同時に開拓された微分積分学という数学の革新的方法によって、この法則の背後にある本質的な自然界の法則、すなわち、ニュートンの万有引力の法則の発見(「自然哲学の数学的原理:プリンキピア」1687年)へと統合され、帰結していくという歴史をたどることになりました(→【補】)。

 ニュートンの業績は、ケプラーによる惑星の運動法則とガリレオによる落体の運動法則から天上と地上の運動を統一させた力学を作り上げ、リンゴが落ちるのと地球が太陽のまわりを周回するのが同じ力の遠隔作用<万有引力>によることを確立したこと、さらに、そのための方法として微分積分学を体系づけたことにあります。ガリレオの放物線とケプラーの楕円は物理現象の記述に円と直線以外の円錐曲線が使われた科学史上初の出来事になっていて、外見の違う現象が統一原理で結ばれる1つの実例になりました。これらの結果を基礎としてニュートンはすばらしい重力理論を作り上げたことになるのですが、ケプラーやガリレオなしにニュートンの成果は生まれ得なかったであろうと思われます。天空と地上の二つのことが、二人の一種の分業によって高い水準まで達したのですが、それがニュートンによって統合されたのです。

 ニュートンの仕事は、物理現象の知識を数学を用いて獲得することに成功した例であり、ニュートンの法則を使えばケプラーの法則を導くことができます。逆に、数学が物理現象を探し求める助けとなった顕著な例として、海王星の存在を純粋に理論的に予言した事実をあげることができます。

 1820年頃、天王星の運動に不可解な偏差が観察されました。ニュートンの万有引力の理論から、天王星の運動の乱れは未知の惑星の引力によるものと予想されていましたが、一種の逆問題によって未知の惑星の質量と軌道が導かれました。天王星のずれから、未知の惑星の位置を予測したのはフランスのルヴェリエとイギリスのアダムスです。その惑星は海王星と名付けられたが、海王星は当時の望遠鏡でやっと見えるほどであり、位置の予測がなければ発見することはできなかったと思われます。

4.重力の謎(ニュートンからアインシュタインへ)

 ニュートン力学の示すところでは、一つの原因が一つの結果を生み、もし初期条件さえわかれば宇宙空間・未来永劫にわたっての結果も予測可能という決定論的思想を生み出しました。ニュートン力学成立以降の約200年間、それは疑われることがありませんでしたが、今世紀になり確率論的自然観に基づいた統計熱力学や量子力学などの新しい大きな波が押し寄せ、現代の科学や自然観を形成してきたことはご承知のとおりです。20世紀の物理理論でもっとも革命的なものは、「量子論」と「相対性理論」といえましょう。

 「量子論」も「相対性理論」もある極限の性質としてニュートン力学を含んでいます。プランク定数をゼロとしてよい極限で量子論はニュートン力学になるし、光速度に比べて遅い速度の極限では特殊相対性理論はニュートン力学に、また、一般相対性理論は重力を無視した極限で特殊相対性理論になります。このように、より進んだ理論が旧来の理論をひとつの極限として含むという考えは、それ以後の新理論を構築する上での参考になっています。

 重力の謎はニュートンにより終止符が打たれたかに思えましたが、そのとき新しい問題はすでに始まっていたのです。惑星の運動、潮汐現象、自転軸の歳差運動などの数学的な公式の解明の一方で、万有引力の原因たる生成・維持・伝播機構など重力の物理的本質についてはなお未解決の難問になっていて、なぜ万有引力が誘導されるかということは全く神秘につつまれたままであったのです。ニュートンの「万有引力の法則」は天体力学の基礎をなし、人工衛星の軌道の決定のような事柄においては今日でもまだその役割を果たしているのですが、今世紀の初めにアインシュタインの「一般相対性理論」(1916年)に置き換えられることになりました。

 アインシュタインは重力をニュートンが理解したように離れたところから作用する力というのではなく場の性質と考えました。すなわち、重力場では物質が存在するとそのまわりの時間・空間が曲がると考えて、重力現象が時空の曲率に比例すると仮定し、非ユークリッド幾何学を用いて重力場の性質を説明しています。ニュートンは宇宙空間が3次元ユークリッド空間であると想定していたのに対し、アインシュタインは重力場の強さが空間の歪みに依存することを説明するために、コペルニクスが宇宙の中心としての地球の位置を否定したようにユークリッド空間が幾何学において果たしていた中心的役割を排除し、空間が変化する曲率をもつリーマン幾何学(楕円幾何学)に重力の解明への道筋を見いだしたのです(→【補】)。

 自然をより正確に記述するために新しい数学を開発しなければならない場合もあります。ニュートンが自ら発見した物理法則を表現するために、微分積分を開発したのは有名ですが、アインシュタインは重力場の新しい理論を打ち立てるために、それまで単なる数学的試みと考えられていたリーマン幾何学を発掘したのです。したがって、アインシュタインの一般相対性理論(物質は空間の曲がりを決め、空間の曲がりが物質の運動を決めるという理論)は重力に関する幾何学的理論であり、楕円幾何が正しい限りにおいて正しいものになります。一見、非ユークリッド幾何学は常識外れのようですが、この方法が現実的で応用力があるというのは何とも不思議なところです。

 また、重力場の方程式は、宇宙は無限であるというより有限だが境界がない世界であることを意味しています。これらの着想はまさにコペルニクス的大転回であり、これまで考えられた宇宙モデルの中でもっとも偉大な概念といってもいいでしょう。アインシュタインの重力方程式では、ニュートン力学では記述することができない重力理論、例えば、重力波の伝播なども予測されていて、ニュートンを超える重力理論はこの方程式にまとめられています。一般相対性理論の完成後、アインシュタインはそれを拡張した統一場理論へと進むことになりました。アインシュタインにとって、ニュートンの理論はその第1近似に過ぎなかったのです。

 一般相対論はアインシュタインにとって最終結果であると思われました。なぜなら、これによって重力と時空が統一されたからです。ところが、宇宙の起源に関するアインシュタインの静的模型は、フリードマンがアインシュタイン方程式が不安定であることを示し、ハッブルが宇宙の膨張を示したことによって早急に破棄されることになりました。理論は破棄されるためにあること、アインシュタインの相対性理論はまさにそれを示しています。


【補】周転円軌道(エピサイクル)

 回転円が固定円に接して滑ることなく転がっていくとき、回転円の周上の点の軌跡を考えます。回転円が固定円に外接するとき、その軌跡をエピサイクロイド、内接するとき、ハイポサイクロイドと呼びます。アステロイド:x2/3+y2/3 =a2/3 は固定円の半径が回転円の半径の4倍になっているハイポサイクロイドです。

【補】天体望遠鏡

 ガリレオは20倍の天体望遠鏡を作成し、1610年に木星の4個の衛星と土星の輪を発見しています。天王星、海王星、冥王星は望遠鏡の発達に伴って、それぞれ1781年、1846年、1930年に発見されています。

【補】自然の不連続性

 19世紀末から20世紀初頭にかけて、物質の不連続性(原子)、電気の不連続性(電気素量e)に引き続き、エネルギーの不連続性(hν)という自然の秘密は徐々に暴かれてきました。

 1913年、ボーアはプランクが提案した量子化の概念を原子構造に導入することによって、原子模型の難点を解決できることに気づきました。ボーアはバルマーやリュードベリのスペクトル系列の公式:

1/λ=R(1/m2 −1/n2

の中に、原子の中には電子が輻射を行わない軌道があること、輻射は電子がある軌道から別の軌道に跳躍するときだけに生じることを見つけだし、原子自体の微細構造を明らかにしたのです。

 リュードベリ定数Rは物理学の普遍的な定数で、電子の質量m、電子の電荷e、光速度c、プランク定数hと式

R=2π2 me4 /ch3

で結ばれています。しかも、eについては4乗、hについては3乗しているのですからかなり複雑な関わり方をしています。

【補】ボーデの法則

 1772年、ベルリン天文台長のボーデは惑星を太陽に近い順に0(水星),1(金星),2(地球),3(火星),・・・番と数えるとき、太陽から地球軌道の平均半径を1天文単位とすれば、第n番目(n≧1)の惑星の平均距離は(3×2n-1 +4)/10になるという、いわゆるボーデの法則を発見しました。この経験則は、1766年にドイツのティティウスが発見した関係を掘り出したもので、ティティウス・ボーデの法則とも呼ばれます。この法則は驚くべき正確さで太陽から惑星までの距離に対応していますが、理論的根拠があるわけでなく、全くの経験的法則であったため、あまり注意を払われませんでした。

【補】自然哲学

 ガリレイは実験物理の父、そしてニュートンは理論物理の父とみなされています。もちろん彼らの時代には、物理は統合された分離できない科学であり、実際、物理学とさえ呼ばれず、自然哲学と呼ばれていたのです。

 ルネサンス期、自然科学はまだ完全に人文科学とも分離してはいませんでしたが、この特徴も17世紀末にはほとんど廃れてしまい、物理と数学の研究ですら一般には結びつかなくなってしまいました。科学技術が高度に発達すると専門分科が進み、分野ごとに周囲に高い壁を張り巡らせて閉じられた世界と化してしまうのです。

【補】ガウスの測量

 ユークリッド幾何学(放物線幾何学)、ボヤイ・ロバチェフスキー幾何学(双曲線幾何学)、リーマン幾何学(楕円幾何学)、この3種類の幾何学は大きく見るとそれぞれ異なっていますが、局所的に見るとほとんど変わりません。現在われわれが住んでいる宇宙もユークリッド的に見えますが、もっと大きく見ると非ユークリッド的であってもよいわけです。リーマンはゲッチンゲン大学におけるガウスの後任教授ですが、ガウスがホーエル・ハーゲン、ブロッケン、インゼルスベルクの3つの山頂からなる巨大な三角形の測量に基づいて、この疑問に答えようとしていたことは有名な逸話です。