■ゼータ関数の零点分布と量子カオス

 ゼータは数の世界,量子カオス系は原子核物理の世界の住人である.両者の棲む世界はまったく異なり何の接点もないように見える.にも関わらず,どちらも同じ法則で支配されているという・・・.
 
 今回のコラムでは
  [参]量子カオスの物理と数理,サイエンス社
を参考文献として,ゼータ関数の零点分布の話を取り上げたい.このように同じ法則がまったく別の方面から現れることになにか「神秘」を感じないだろうか.
 
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【1】リーマン予想
 
 ゼータ関数は,整数をわたる無限和(ディリクレ級数)
  ζ(s)=Σ1/n^s
として定義される関数である.
 
 また,ゼータ関数は素数全体をわたる無限積
  ζ(s)=Π(1−p^(-1))^(-1)
      =Π(1+1/p^s+1/p^2n+1/p^3n+・・・)
      =(1+1/2^s+1/2^2n+1/2^3n+・・・)(1+1/3^s+1/3^2n+1/3^3n+・・・)(1+1/5^s+1/5^2n+1/5^3n+・・・)・・・
に等しいことがわかっている.右辺
  Π(1−p^(-1))^(-1)
はディリクレ級数を丸ごと素因数分解したようなものであって,オイラー積と呼ばれる.
 
 1859年,リーマンはゼータ関数ζ(s)の複素零点はすべて実部が1/2であるという仮説を発表した.これがかの有名なリーマン仮説であるが,140年以上経たいまも証明されないままになっている.そのため,数学における未解決問題のうち最も難しいものと考える人も多い.
 
 リーマン予想は,一部に素数定理なども含む数学上の最大の難問であって,素数定理
  π(x)〜x/logx
を精密化する問題と考えることができる.
 
 部分積分により
  ∫(2,x)dt/logt=x/logx+1!x/(logx)^2+・・・+(m−1)!x/(logx)^m+・・・
であるから,素数定理はπ(x)の初項だけを求めた定理であるといえるだろう.そこで素数に関する未解決問題を解くにはリーマン予想の証明が重要になってくるのである.
 
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 ヒルベルトは,リーマンのゼータ関数ζ(s)の零点がランダム・エルミート行列の固有値のように分布していると推測し,1915年頃,ポリアとともにゼータ関数の零点をスペクトルとして解釈できないだろうかと提案した.
 
 とはいえ,そのような数学的証拠が実際になければそれは理論上のことに過ぎない.そして,1956年,ゼータ関数の零点スペクトルはセルバーグ・ゼータ関数の発見ではじめて実際に関係づけられることとなった.ヒルベルトとポリアの提案が予想の枠をこえて現実味を帯びてきたのである.
 
 このとき開花したS型ゼータ(セルバーグ・ゼータ)は20世紀数学の最大の発見という人もいるほどであるが,リーマン・ゼータのようなA型のゼータ関数をS型ゼータ関数として表すことによりリーマン予想を解決しようという哲学が「ゼータ統一理論」である.
 
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 一方,コンピュータの発達により数値解析の研究が進み,モンゴメリーやオドリズコの数値計算によって,ゼータ関数とランダム行列理論との関連が見いだされた.
 
 ゼータ関数の複素零点は
  ζ(1/2+i14.134725・・・)=0
  ζ(1/2+i21.022040・・・)=0
  ζ(1/2+i25.010856・・・)=0
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
と続く.
 
 ここで,リーマン仮説が成り立っていることを仮定し,ゼータ関数のj番目の零点を
  1/2+igj
と書くことにすると,ゼータ関数の零点の密度は実軸からの距離とともに対数的に増加するので,その平均間隔によって正規化
  gj~=(gjloggj)/2π
すると
  gj~〜j
すなわち,隣り合う零点の間隔は平均1となる.
 
 ベル研究所のオドリズコは正規化された零点の間隔について詳細な数値計算を行い,隣り合った二つのgj~の差に関する度数分布図の結果がGUEとほぼ完璧に一致することを示した.
 
 また,モンゴメリーは正規化された零点のペアに関する相関を調べ,ダイソンはそれがランダムなユニタリ行列の固有値の相関関係
  1−(sinπΔE/πΔE)^2
と同じものであることに気づいた.
 
 このような零点の分布は偶然とは考えにくく,零点虚部はある未知のエルミート演算子の固有値である可能性が強いと考えられた(モンゴメリー・オドリズコ予想).
 
 零点の間隔分布がGUEのスペクトル統計に一致することが精密な数値計算により予想されたのだが,このようにランダム・エルミート行列の隣り合う固有値の間隔分布を行列の次数を無限大にして考えた理論曲線と一致したことは,数論研究者にとって衝撃的な結果であった.
 
 これらのことにより,ゼータ関数の零点分布がランダム行列理論で得られる関数で表されることは予想されていたのだが,近年,ルドニックとサルナックはこれを部分的に証明したという.
 
 このようにゼータ関数の零点を作用素のスペクトルと関連づけて解釈しようとする数論の新しい動きを総称して「数論的量子カオス」と呼ばれる.素数を周期軌道,零点を固有値と読み変えることによって,ゼータ関数が仮想的な量子系を表現していると考えることができるというのである.
 
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【2】ランダム行列
 
 ヒルベルトの推測したランダム・エルミート行列と同種の行列は,後になって,その固有値が核子のエネルギーレベルに対応している原子核物理学の研究によく出てくることがわかった.
 
 このエネルギーレベルの差として得られる分布が「ウィグナー分布」と呼ばれるものである.ウィグナー分布の詳細については後述することにするが,エネルギースペクトル{En}をエネルギー準位を大きい順に
  En≧En-1≧・・・≧E1
とならべ,その間隔
  ΔE=Ei−Ei
を測定する.そしてE〜E+dEの間におちる個数を
  P(E)dE
とする.
 
 可積分系では間隔分布P(E)は指数分布
  P(E)〜exp(−aE)
に従う.ポアソン分布に従う変数の間隔分布は指数分布に従うから,量子物理では指数分布とポアソン分布がほとんど同義語のように使われている.
 
 それに対し,カオス系ではα次のウィグナー分布
  P(E)〜E^αexp(−aE^2)   α=1,2
に従うことが経験的に知られている.
 
 可積分な古典系を量子化したときに得られるエネルギーの間隔分布が指数分布であり,カオス的な古典系の量子化によって得られるのがウィグナー分布である.言い換えれば,準位間に反発のあるのがウィグナー分布,反発のないのが指数分布ということであって,この2分布の本質的相違は,E→0のとき,ウィグナー分布では縮退の消失を反映して
  P(E)→0
となることである.
 
 ランダム行列の理論は,原子核物理において各行列成分がランダムになったものとして,ある対称性だけを仮定することによりエネルギーを研究するようになったのが始まりである.そして,原子核準位の統計的記述として生まれたランダム行列の理論が量子カオスの研究へと繋がるのであるが,その統計性に適当な仮定,たとえば,正規分布を仮定する場合が非常に詳しく研究されている.
 
 α次のウィグナー分布
  P(E)〜E^αexp(−aE^2)   α=1,2
のような分布はランダムな行列要素をもつエルミート行列の固有値の間隔分布に現れることが知られている.
  α=1のとき→GOE(実対称行列)
  α=2のとき→GUE(エルミート行列)
  α=4のとき→GSE
と呼ばれるのだが,それぞれ,Gaussian (Orthogonal,Unitary,Symplectic) Ensembleの略である.
 
 固有値の統計を調べる上で,相関関数と呼ばれる量が重要な役割を果たすのだが,それによれば,ΔE離れた固有エネルギー対が存在する確率は,α=2の場合,
  C(ΔE)=1−(sinπΔE/πΔE)^2
になる.
 
 経験的に量子カオス系の固有エネルギーにも同様の相関が見られる.GUEから得られた相関関数がゼータ関数の零点と密接に関係していることがモンゴメリー,サルナックなどによって示されたことは前述したとおりである.
 
[補]転置と複素共役を組み合わせた作用を(~)で表すことにすると,
   実数             複素数
  対称行列(A’=A )  → エルミート行列(A~=A)
  直交行列(A’=A^(-1))→ ユニタリー行列(A~=A^(-1))
  反対称行列(A’=−A )→ 反エルミート行列(A~=−A)
 
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【3】ウィグナー分布(エネルギー準位の固有値分布)
 
 対称なランダム行列Hを,ユニタリー変換
  H’=WHW~
して,Hの固有値:E1,E2,・・・,Enを確率変数とする同時確率分布関数
  P{Ei}=Cexp{-(E1^2+・・・+En^2)/4a^2}Π(Ej−Ek)^β
を導出する.
 
 Π(Ej−Ek)は差積を表すのだが,簡単のため,n=2の場合を考えてみると,
  P{E1,E2}=Cexp{-(E1^2+E2^2)/4a^2}(E2−E1)^β
 
 2変数E1,E2(>E1)を
  E=E1+E2,S=E2−E1
で置き換えると,ヤコビアンは
  J=d(E1,E2)/d(E,S)=1/2
 
 したがって,
  P{E,S}=Cexp{-(E^2+S^2)/8a^2}S^βJ
  P{E,S}dEdS=CJexp{-(E^2)/8a^2}dE×S^βexp{-(S^2)/8a^2}dS
 
 よって,準位間隔がSとS+dSの間に落ちる確率は
  P{S}=(定数)S^βexp{-S^2)/8a^2}   (0<S<∞)
これがウィグナー分布と呼ばれる最隣接間隔分布であり,Sが0でないところにピークをもち,隣接する準位の反発を表す関数である.
 
 最隣接間隔分布は,尺度母数aや形状母数βの値によって,
  1次のウィグナー分布:p(s)=π/2sexp(-π/4s^2)
  2次のウィグナー分布:p(s)=32/π^2s^2exp(-4/πs^2)
などとなるが,指数関数の引き数は前者も後者も2乗の形s^2であることに注意されたい.
 
[補]Hが実対称行列(磁場が作用せず時間反転対称性がある)のときβ=1,Hが複素エルミート行列(磁場が作用して時間反転対称性が破れている)のときβ=2.
  H’=WHW~
において,Wが直交行列でHがガウス分布に従う実対称行列のとき,Hの集合をGOE,Wがユニタリー行列でHが複素エルミート行列のとき,Hの集合をGUEという.
 
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 原子核物理学ではウィグナー分布と呼ばれているが,1次のウィグナー分布はレイリー分布,2次のウィグナー分布はマクスウェル分布と呼ばれる分布に一致するものである.レイリー分布は英国のレイリー卿が音響工学との関連でこの分布を発見したことに由来し,マクスウェル分布は気体分子の速度分布と関係した物理学上の重要な分布関数になっている.
 
 これらは一般にはχ分布と呼ばれるクラスに属し,n次元正規分布おける原点からのユークリッド距離の確率分布として導きだされるものである.その意味で,レイリー分布・マクスウェル分布は,いわゆる2次元・3次元標的問題の解となる分布である.
 
自由度   ワイブル分布   χ分布        非心χ分布
 1    指数分布     半正規分布      折り重ね正規分布
 2    レイリー分布   レイリー分布     ライス分布
 3    ワイブル分布   マクスウェル分布   非心χ分布
 
 レイリー分布は形状母数2のワイブル分布であるが,この分布は2つの顔をもっていて,χ分布において自由度2としたものでもある.すなわち,形状母数2のワイブル分布は,特別な性格をもつのである.
 
  1)レイリー分布はワイブル分布の1種であり,ポアソン過程で生成された個々の点の最近接点との距離の分布となっている.
  2)レイリー分布は自由度2のχ分布であり,自由度2のχ^2分布は指数分布であるから,レイリー分布は指数分布にしたがう確率変数の平方根の分布と理解することができる.
 
 n次元におけるχ分布の密度関数は
  p(x)=1/(2^(n/2-1)Γ(n/2))σnexp{-r2/2σ2}r^(n-1)
であるが,その導出に関してはコラム「標的問題の解とχ分布」を参照されたい.とくに,自由度1のχ分布は,半正規分布であり,この分布は期待値が0の正規分布をy軸(x=0)で折り返した分布になっている.また,自由度2のχ分布がレイリー分布,自由度3のχ分布がマクスウェル分布と命名されていることは前述したとおりである.
 
 量子系のエネルギー準位間に強い反発が生じると,エネルギー準位の最近接間隔分布はウィグナー分布に一致する.一方,可積分系では準位間の反発がなく,指数分布
  p(s)=exp(-s)
にしたがう.近可積分系のときには,ウィグナー分布とポアソン分布の中間をとるのだが,実際,最隣接間隔分布は中間の分布になることが多いという.
 
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【4】ウィグナーの半円則
 
 前節では,エネルギー準位の最隣接間隔分布について述べたが,ウィグナー分布は対称行列の固有値分布に登場する分布である.
 
 n次の対称行列Hの固有値はすべて実数であり,それらを並べて,
  λ1≦λ2≦・・・≦λn
とするとき,n→∞のときの挙動,すなわち,固有値の漸近分布を調べたい.
 
 ウィグナーは,n→∞のとき
  a√n≦λ≦b√nなる固有値の数/n → ∫(a,b)φ(t)dt
     ここで,φ(t)=1/2πm^2√(4m^2-t^2)
が成り立つことを証明した(1958年).
 
 この定理は要素の分布(ランダム,一様分布,ガウス分布,・・・)の詳細によらず,一般的に成り立つ性質であり,複雑で何の秩序もないように見える行列であっても,行列の大きさが非常に大きいときに成り立つ普遍的な法則があるというのである.
 
 分布関数φのグラフは半円y=√(1-x^2)で与えられるからこの定理を「半円則」ともいう.ウィグナーの半円則は近年大いに発展したランダム行列の原型となっている.
  →[参]コラム「最近接距離分布(ウィグナー分布)」
 
[補]乱歩の確率論では,レヴィの「逆正弦則」というものがあり,そこでは
  y=∫dt/√(1−t^2)=sin^(-1)x
として登場する→コラム「格子上の確率論(その6)」参照.
 
 一般に,P(x)を2次の多項式とするとき,
  f(x)=1/(P(x))^(1/2)
  F(z)=∫(0,z)f(x)dx
は対数あるいは円関数(三角関数)になる.それに対して,P(x)が重根をもたない3次,4次の多項式の場合は,初等関数をいくら組み合わせても得られない関数(楕円積分)が登場する.たとえば,
  y=∫dt/√(1−t^4)
は,レムニスケート積分と呼ばれる典型的な楕円積分である.
 
 なお,
  ∫(0,1)1/(1-x^1)^(1/2)dx=2
  ∫(0,1)1/(1-x^2)^(1/2)dx=π/2
は初等的にも得ることができるが,一方,
  ∫(0,1)1/(1-x^3)^(1/2)dx=Γ^3(1/3)/2^(4/3)3^(1/2)π
  ∫(0,1)1/(1-x^4)^(1/2)dx=Γ^2(1/4)/2^(5/2)π^(1/2)
はガンマ関数と楕円積分を関係づけるものである.一般に,
  ∫(0,1)x^(m-1)/(1-x^n)^(1/2)dx=Γ(m/n)√π/nΓ(m/n+1/2)
が成り立つ.→コラム「楕円積分とガンマ関数」参照
 
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 ところで,数論における楕円曲線のヴェイユ・ゼータに関する佐藤(幹夫)予想とは,
  偏角が[a,b]となる素数密度 〜 2/π∫(a,b)sin^2θdθ
というものである.
 
 角分布がsin^2θに比例するという佐藤予想の最初の記述は,資料によると,昭和38年(1963年)のことなのであるが,sin^2予想でt=cosθとおけば,
  偏角が[a,b]となる素数密度 〜 2/π∫(α,β)√(1-t^2)dt
となり,これも1種の半円則となっていることがわかる.
 
 佐藤予想と対称行列の固有値分布に関するウィグナーの定理は,前者は数論,後者は物理学に関係していて出所はまったく異なるにも関わらず,どちらも同じ「半円則」で表されることは興味深いものがある.ゼータ関数と量子カオスのように根っこのところが,同じ構成原理で繋がっていることが予想されるであろう.
 
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【5】量子力学の余白
 
 1925年,ハイゼンベルグが行列力学を,シュレディンガーが波動力学を提唱しました.ハイゼンベルグとボルンが行列力学を発見したとき,同じ固有値をもつ微分方程式を探すべきだと,ヒルベルトは彼らに語ったと伝えられています.しかし,彼らはそれに従いませんでした.そのために波動方程式を発見し損なったのですが,結局,その栄誉はシュレジンガーに与えられることになったのです.
 
 ハイゼンベルグは電子が粒子であることを前提とし,行列方程式を導きました.一方,シュレディンガーは電子の波動的性質から波動方程式を導きました.行列力学と波動力学は,別々に独立に存在し,それぞれが前提としていたことが大幅に異なっていたのですが,形式こそ違え,物理的には等値で,「量子力学」という1つの理論を表現していることが証明されました.
 
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