■研究者の責任(補遺の補)

[1]正確な事をお知らせしておきます.電力供給については以下の通りです.1879年に仙台の三居沢に元一関藩士の菅克復が水車を利用した紡績工場を立ち上げ,この水車に5kwの発電機を付けて発電をしたのが日本における水力発電の最初です.1900年にこの発電機は300kwになりました.

[2]野口は1896年に東大卒業,ジーメンス社に入社しています.水俣地区は藩政当時は海路でしか往けない地区で,平家の落人伝説があり,それに因んだ地名もあります.

 1906年に野口は近隣の金鉱山に電気を供給する目的で曽木第一発電所(出力300kw二基)を作りました.しかし,金鉱山での電気消費量は200kw程度,近隣地区の電力消費(主に電灯)が600kwで,少々発電所が大きすぎたようでした.

 しかし,野口は経営者としての嗅覚が抜群であったようで,当時ヨーロッパで工業化が始まったアンモニアの製造,カーバイドの製造,石灰窒素の製造に目をつけ,次々に技術を導入する一方で,1909年には曽木第2発電所(出力6000kw)を作り,水俣と延岡における生産を開始しています.尚,延岡の工場はその後分離され現在の旭化成の母体になっています.

>

[3]大学卒業後入社したのがジーメンス社であった事もあり,かれが導入した発電機はいずれもジーメンス社製の50HZ仕様でした.従って,水俣地区と延岡地区は周囲がアメリカ仕様の60HZで取り囲まれた50HZの孤島の状態でした.ただし,現在はどうなっているかわかりません.九州電力に紹介すればよろしいかと思います.

[4]野口は1943年に亡くなっています.水俣の悲劇を見ることなく逝きました.かっては陸の孤島的であった水俣地区が,善悪は別として,チッソ水俣工場のお陰で,南九州の他の地区より早く住民が電気の恩恵に浴することができたわけです.水俣病に対してチッソが取った理不尽とも言うべき態度は,「かっては貧乏だったこの水俣に電気の恩恵をもたらしたのは誰だ!チッソをわすれたのか」という思い上がりがあったのでしょう.

===================================

[後記]

 学兄Iに「水俣病」に関わる基礎を解説していただいた.

 馴染みのない方にとって,化学の記述は意味不明ではないにしても仏教用語に似た独自の用語も多く,その点はとっつきにくかったかもしれないが,行間に流れる記述は意味深で,私もそこに込められた氏の思いがはじめは理解できなかった.

 しかし,肝心要な点は

[1]まったく評価されることなく,あやうく忘れ去られるところであった論文があったこと,

[2]このような立派な研究が行われていたことをまったく知らなかったことを恥じ入るばかりでなく,その復権を果たすこと

であると思われる.水俣病を知らなかった読者はじっくり時間をかけて読むことを勧める次第である.

===================================