■ランダム行列(その1)

 ランダム行列は乱数を要素にもち,基本的な対称性を満足する行列である.a)1950年代になって,ウィグナーはランダム行列に着目し原子核物理への応用を行い,ダイソンはとりわけおおきな貢献をなしたこと

b)ランダム行列の理論は数学の対象としても深い意味をもっていて,整数論におけるリーマン・ゼータ関数の零点分布の統計的性質がランダム行列によって再現できることから素数分布への関連づけががなされていること

はよく知られている.

===================================

【1】ランダム行列

 ランダム行列はウランなどの巨大原子核の励起状態を調べるために考え出されたものである.その理論は原子核物理において各行列成分がランダムになったものとして,ある対称性だけを仮定することによりエネルギーを研究するようになったのが始まりである.そして,原子核準位の統計的記述として生まれたランダム行列の理論が量子カオスの研究などへと繋がるのであるが,その統計性に適当な仮定,たとえば,正規分布を仮定する場合が非常に詳しく研究されている.

 エネルギー準位統計において正規分布を仮定したランダム行列の集団を扱う場合,ランダムな行列要素をもつ行列の固有値の間隔分布として,α次のウィグナー分布

  P(E)〜E^αexp(−aE^2)   α=1,2,4

が現れることが知られている.1960年代初め,量子力学や宇宙論の研究で有名な物理学者ダイソンはランダム行列の研究を行い,

  α=1のとき→GOE(実対称行列)

  α=2のとき→GUE(エルミート行列)

  α=4のとき→GSE

と名づけた.それぞれ,直交アンサンブル(Gaussian Orthogonal Ensemble),ユニタリーアンサンブル(Gaussian Unitary Ensemble),シンプレクティックアンサンブル(Gaussian Symplectic Ensemble)の略である.

 原子核物理学ではウィグナー分布と呼ばれているが,これらは一般にはχ分布と呼ばれるクラスに属し,n次元におけるχ分布の密度関数は

  p(x)=1/(2^(n/2-1)Γ(n/2))σ^nexp{-r^2/2σ^2}r^(n-1)

で表される.χ分布はn次元正規分布おける原点からのユークリッド距離の確率分布として導きだされるものである.その意味で,レイリー分布・マクスウェル分布は,いわゆる2次元・3次元標的問題の解となる分布である.

 すなわち,GOEでは最近接間隔分布として1次のウィグナー分布(レイリー分布),GUEの場合は2次のウィグナー分布(マクスウェル分布)が得られる.1次のウィグナー分布はレイリー分布,2次のウィグナー分布はマクスウェル分布と呼ばれる分布に一致するものである.レイリー分布は英国のレイリー卿が音響工学との関連でこの分布を発見したことに由来し,マクスウェル分布は気体分子の速度分布と関係した物理学上の重要な分布関数になっている.

 量子系のエネルギー準位間に強い反発が生じると,エネルギー準位の最近接間隔分布はウィグナー分布に一致する.一方,可積分系では準位間の反発がなく,指数分布

  P(E)〜exp(−aE)

にしたがう.ポアソン分布に従う変数の間隔分布は指数分布に従うから,量子物理では指数分布とポアソン分布がほとんど同義語のように使われている.また,近可積分系のときには,ウィグナー分布とポアソン分布の中間をとるのだが,実際,最隣接間隔分布は中間の分布になることが多いという.

 なお,0と1の間に互いに独立に一様分布する乱数がN個あるとする.乱数間の最近接間隔分布はN→∞のとき指数分布にしたがうこと,n次元の一様乱数の場合,n次のワイブル分布にしたがうことを申し添えておく.

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 固有値の統計を調べる上で固有値分布のゆらぎこそが重要で,それを評価するために2準位相関係数や最近接準位間隔分布などが用いられる.とくに,相関関数と呼ばれる量が重要な役割を果たすのだが,それによれば,ΔE離れた固有エネルギー対が存在する確率は,α=2の場合,

  C(ΔE)=1−(sinπΔE/πΔE)^2

になる.

 また,モンゴメリーは正規化されたゼータ関数の零点のペアに関する相関を調べ,ダイソンはそれがランダムなユニタリ行列の固有値の相関関係

  1−(sinπΔE/πΔE)^2

と同じものであることに気づいた.

 経験的に量子カオス系の固有エネルギーにも同様の相関が見られるが,偶然の一致とは考えにくく,ゼータ関数の零点虚部はある未知のエルミート演算子の固有値である可能性が強いと考えられた(モンゴメリー・オドリズコ予想).零点の間隔分布がGUEのスペクトル統計に一致することが精密な数値計算により予想されたのだが,このようにランダム・エルミート行列の隣り合う固有値の間隔分布を行列の次数を無限大にして考えた理論曲線と一致したことは,数論研究者にとって衝撃的な結果であった.

 これらのことにより,ゼータ関数の零点分布がランダム行列理論で得られる関数で表されることは予想されていたのだが,近年,ルドニックとサルナックはこれを部分的に証明したという.

 このようにゼータ関数の零点を作用素のスペクトルと関連づけて解釈しようとする数論の新しい動きを総称して「数論的量子カオス」と呼ばれる.素数を周期軌道,零点を固有値と読み変えることによって,ゼータ関数が仮想的な量子系を表現していると考えることができるというのである.

===================================