■二分法の対立(その7)

 (その6)の続きである.

 フォン・ノイマンはいつの日かコンピュータで数カ月先の天気予報できるようになると語った.もちろん2日先ならかなり信頼に足る予報ができるが,5日先となると信頼性はすこぶる低下する.一体,何が問題なのか? 答えはズバリ「カオス」である.

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【1】ローレンツモデル(3変数の力学系)

 地球の表面には10km程度の空気の層があり,そこでの対流は気象現象という複雑な変化を生じます.気象現象のひとつの数学モデルが,1963年,アメリカの気象学者ローレンツにより提出された対流・乱流モデル(天気予報のモデル)です.ローレンツは,天候をシミュレートするために流体の運動を簡単な3個変数を含む非線形微分方程式系(一種の三体問題)にモデル化し,非線形項を含む3次元の微分方程式の解がパラメータのある値を境に対流から乱流へと非常に複雑な挙動(カオス)を示すということを明らかにしました.

 その研究中,ローレンツは,コンピュータを使って最初の計算のときはある数値を0.506127と入力したのですが,検算のときには0.506で打ち切ってしまいました.2本のシミュレーシュンカーブは最初のうち似通った振る舞いをしましたが,時間の経過とともに似ても似つかない結果になってしまいました.初期値はたった5000分の1程度の誤差です.すなわち,ローレンツ方程式による気象計算はパラメータの初期条件に敏感に依存し,小数点以下の数字を四捨五入するかしないかでその後の天候の移り変わりがまったく異なり,解の振る舞いは本質的にクジ運的・確率論的であることから,ローレンツはこれをバタフライ効果−−−1匹の蝶が羽ばたいたことで明日の天気が変わる可能性があること−−−と呼んでいます.

 天文学と気象学は,どちらも私たちの頭上の世界を扱っている点では共通ですが,天文学上の現象は何世紀にもわたって予測できるのに対し,皮肉なことに,明日の天気を正確に予報することですら非常に困難なのです.

 パラメータの値をほんの少しずらした力学系の定性的性質を調べる方法を摂動法といいますが,特定のパラメータの場合のローレンツ系の解軌道を描くと,3次元空間に蝶の羽根を思わせるような8の字状の非常に複雑な往復運動をし,定常状態に達することはありません.この解の軌跡はストレンジアトラクタ(奇妙な引き込み領域:アトラクタとはプロットする点がある不動の対象に引き寄せられていくときの対象を指す)と名付けられています.

 カオスには周期性がないので有限の空間に無限の軌道を描き続けることになり,これを数学らしく言い換えるとローレンツの3次元微分方程式の解はt→∞で有界ではあるが周期的でないということになります.

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【2】3体問題

 ニュートンは逆2乗則にしたがう引力が,宇宙のどの場所においても,どんな2つの物体の間にも例外なく存在するはずだという,実に大きな知的飛躍を試みて大成功をおさめ,ニュートン以来の古典力学は解析力学という形で一応の完成をみました.もちろん,現在の科学はニュートン力学だけでは不十分で,光の速度に近いような非常に速い物体,原子とか量子とか非常に小さい物体の運動法則は,もはやニュートン力学ではうまく説明できません.そこで,アインシュタインの相対性理論という新しい力学が出現したのです.しかし,運動する速度があまり大きくない物体の運動,たとえば,人工衛星の運動ではニュートン力学は実にうまくあい,相対性理論を使う必要はまずありません.

 天体力学において,2つの物体まではニュートン力学によって解析的な計算を行うことができ,互いに引力を及ぼしあっている二つの物体は楕円,放物線,双曲線のうちのいずれかの軌道になることが証明されています.例えば,地球から打ち上げた人工衛星の初速が秒速7.9km(第1宇宙速度)のとき円,それ以上で秒速11.2km(第2宇宙速度)以下のとき地球を焦点とする楕円,秒速11.2kmのとき放物線,それより速いときは双曲線を描くといった具合です.放物線軌道,双曲線軌道になると地球の重力圏を脱出し,もう地球に戻ってくることはありません.これらの曲線は円錐を異なる平面で切ることで得られる一群の曲線,すなわち円錐曲線で,天文学において重要な役割を果たすことになり,力学と幾何学の間には美しい調和が存在していることになります.

 ニュートンは2つの天体の間の運動方程式(微分方程式)を積分することによって解き,安定な周期解となることを導き出しました.この解がケプラーの法則です.次に,3つの天体間の運動方程式,すなわち3体問題(例えば,地球と太陽と木星しかない宇宙で,これら3つの星の運行を決める)に関心が移ってくるのは当然のことでしょう.ところが,天体の数が3つになると複雑でお手上げになることをご存じでしょうか.

 ニュートンの後継者たちは,物体が3つ以上ある系についても運動方程式を積分して解くことを試みたのですが,結局,積分不能で行き詰まってしまいました.3体問題の運動方程式を書くのは容易ですが,それを解くのは非常に難しく,方程式を正確に解く公式をどうしても見つけられなかったのです.2体問題は可積分であるのに対し,3体問題の技術的な困難は,ニュートンから2世紀以上経てもなお完全な答えは見つからなかったのですが,19世紀末から20世紀初頭にかけて,ポアンカレは3体問題を積分法で解くことは不可能であることを証明しています.

 3体問題は可積分でないという不存在証明が微分方程式論など数学に与えた影響は大きなものがあります.数学は数学内部から影響で進展するとともに,物理学,天文学,力学の強い外部的影響のもとで,関連しながら発展してきましたが,ヒルベルトは,ポアンカレを議長とする1900年の国際数学者会議で「数学の諸問題」という講演を行っています.ヒルベルトのあげた23の問題は数学のほとんど全分野にわたっていて,彼自身の研究と密接に関連しています.そのなかで,数学の発展をもたらした問題の例として,最速降下線の問題,フェルマーの問題,三体問題,正多面体の問題,代数関数論におけるヤコビの逆問題をあげていますが,フェルマーの問題がまったく純粋な思考の産物であるのに対して,三体問題は天文学上の必要性から生じたもので好対照をなしています.

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【3】太陽系のなかのカオス

 二体問題の運動方程式はニュートンによって解かれ,その解はよく知られたケプラーの法則になります.ケプラーの法則では,すべての惑星はどれも太陽を1つの焦点とする同心楕円上を運行し,地球は永久にその楕円軌道を保ちながら太陽の周りを回り続ける周期軌道をとります.このように,二体の系においては軌道が安定するのですが,その系にもう一つ惑星をつけ加えると地球はもはや時計仕掛けのように正確で不変な軌道を保つことができず,カオス的にゆらぎ,ゆがめられてしまいます.3体問題は可積分でないばかりかカオスをも生ずるのです.

 この問題は天体がそれ以上になるとさらに難しくなります.実際の惑星の運動は,太陽と惑星との二体問題ではなく,他の惑星の重力の影響も絡み合った多体問題になります.太陽系は太陽と9つの惑星が月や小惑星,彗星を伴って運動している大家族・大惑星系であり,その相互作用はかなり複雑となってしまうのです.

 1887年頃,最後の万能数学者と呼ばれたフランスの数学者ポアンカレは「すべての惑星は現在の軌道とほとんど同じ軌道上を今後も運動し続けるのだろうか.それとも,太陽系外に飛び去ってしまったり,太陽に衝突する惑星もあるのだろうか.」という太陽系の安定性について研究していました.ポアンカレによってスタートした力学系の研究から,多体問題の運動方程式を解くことは極めて難しいことが知られていて,周期的なものだけでなくで,不規則で予測できないもの−−−たとえば有界ではあるが周期的でない軌道や無限軌道−−−が現れることが証明されています.したがって,実際の惑星の運動はケプラーの法則が厳密には成立しないため,非常に複雑な運動になることがわかっていて,3つというごく少数の物体を記述する微分方程式を解くことさえ非常にむずかしく,その軌道計算は簡単には解けないのです.

 それに対するポアンカレの考え方は微分方程式の定量的な厳密解を求めることをあきらめ,微分方程式の解の大域的性質を幾何学的に研究すること,すなわち,解があるかないか,周期的かどうか,構造安定かどうかだけの定性的性質を調べるという位相幾何学的なものでした.現在,式の形でうまく解けなかった3体問題の微分方程式を数値的に解き,それをアニメーションの形で見ることができるようになりましたが,それでもまだ完全な解答には到達しておらず,近似的な結論ですが,「太陽系は安定か」という問いに対しては,大体周期的になる配置と惑星がさまよう出すような配置とが紙一重の差で混ざり合っているという答えが与えられています.

 力学系の理論はもともと太陽系の運動を研究するところから出発したのですが,天文学に限らず,素粒子物理学の世界でも事情は同じで,素粒子の数が3つ以上になるとやはり解析的な計算は困難になり,コンピュータを使った近似計算に頼ることになります.しかし,さらに複雑な系ではコンピュータ処理にも適用限界があり,間違った相互作用仮説に基づいて解析すると当然のことながら誤った結論を導くことになるので注意が必要です.場合によってはまったく間違った結果を導く可能性があり,相互作用をどう仮定し,多体問題をどう処理したかによって,いろいろな方程式が提唱されているというのが現状です.

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