■3次元原子の電子軌道

 物質の不連続性(原子),電気の不連続性(電気素量e)に引き続き,エネルギーの不連続性(hν)という自然の秘密は徐々に暴かれてきました.1913年,ボーアはプランクが提案した量子化の概念を原子構造に導入することによって,この難点を解決できることに気づきました.

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【1】ボーア模型(半古典的量子化原子模型)

 ボーアはバルマーやリュードベリのスペクトル系列の公式:

  1/λ=R(1/m^2−1/n^2)

の中に,

a)原子の中には電子が輻射を行わない軌道がある.

b)輻射は電子がある軌道から別の軌道に跳躍するときだけに生じる.

ことを見つけだし,原子自体の微細構造を明らかにしたのです.

 クーロン力という引力と遠心力という離心力の釣り合いだけでなく,量子条件すなわち電子のエネルギーが量子化されていれば,太陽系の衛星と異なり,電子の軌道は任意ではあり得ず,一定半径の軌道上を動くことになり,原子は安定,かつ,原子スペクトルは線スペクトルを与えることを説明することができます.ボーアの理論は原子構造論にとって画期的・革命的な出発点である点は高く評価されます.実際,ボーアの理論が発表されて以来,物理学や化学結合論はこの理論を軸にして発展・展開しました.

 ボーアの円形軌道の理論は水素原子などの1電子原子にしか適用できず,多電子原子に対しては1916年にゾンマーフェルトが軌道に形と傾きという方向性の概念を付け加えた楕円軌道を導入することになりました.これにより,軌道の大きさを決める主量子数のほかに,方位量子数,磁気量子数という2つの新しい量子数が導入されました.のちに,パウリはゼーマン効果(磁場の中でのスペクトル線の分裂)を説明するために,電子にスピンの概念をあてはめ,今日スピン量子数と呼ばれる電子に関する第4の量子数を加わえました.

 このように,初期のボーア模型は徐々に複雑なものとなっていきましたが,より複雑になるにしたがい,初期のエレガントさは徐々に失われてしまいました.原子の中の電子の運動(電子軌道)を古典物理学で説明しようとしたところに本質的な無理があったのです.

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【2】量子力学的原子模型(電子は二重人格者)

 ボーア・ゾンマーフェルト模型のような半古典的な量子化原子模型でもいろいろな物理化学現象をかなりの程度説明することができたのですが,その後,それでもなおいろいろな不備のあることが次第に明らかになりました.

 1925年,ハイゼンベルグが行列力学を,シュレディンガーが波動力学を提唱しました.ハイゼンベルグは電子が粒子であることを前提とし,行列方程式を導きました.一方,シュレディンガーは電子の波動的性質から波動方程式を導きました.行列力学と波動力学は,別々に独立に存在し,それぞれが前提としていたことが大幅に異なっていたのですが,形式こそ違え,物理的には等値で,「量子力学」という1つの理論を表現していることが証明されました.

 このことは,2つの体系の最初の前提,すなわち行列力学における粒子という見方と波動力学における波動という見方の正当性をも示唆しています.量子力学によって,原子の構造は厳密なものに修正されました.量子力学の教えるところによれば,電子の軌道はボーアの考えたような軌跡を追跡できるものではなく,電子は原子内の任意の点にある存在確率をもって存在しうることを示しています.つまり,電子は単なる粒子でも単なる波でもなく,粒子であると同時に空間に広がる波(wavicle=wave+particle)であって,1個の電子は軌道をもつというよりも原子核を取り巻く雲のような存在であり,電子の確率分布はしばしば電子雲という言葉で呼ばれています.

 このような電子の波動関数は軌道と呼ばれますが,英語ではorbitではなく,orbital(orbitのようなもの)としてその違いを表現し,電子の状態を表す軌道関数につけた名前s,p,d,fとかσ,πなどで呼ばれます

 全角運動量量子数lに対応する電子状態には,s(l=0),p(l=1),d(l=2),f(l=3)などの記号がついています.その語源は分光学上の特徴,すなわちスペクトル線の現れ方に由来するもので,たとえば,sはsharp(周波数の範囲が極めて狭い),pはprincipal(中心的な),dはdiffuse(ぼやけた),fはfundamental(基本的な)などの頭文字です.以下g,h,i,・・・と続きます.

 もともとは形容詞であるオービタルという語をあてたのは,電子の軌道が惑星の軌道ほど厳密には描けず,雲状の広がりになっているからです.すなわち,orbitalとは電子の運行する際に描く経路のことではなく,電子の定常波(量子状態)を表していて,orbitとorbitalは似て非なるものです.

 まるで雲をつかむような話ですが,量子力学的原子模型のカギは電子の粒子性と波動性の二重性格が握っていて,量子力学においてプランク定数hを0に外挿した極限が古典力学であり,h→0の極限を考えると粒子のもつ波の性質は消えてしまい古典力学の世界に入り込むことになります.プランク定数をゼロとしてよい極限で,量子論はニュートン力学になるのです.

 電子の運動はニュートンの運動方程式(古典力学)でなく,シュレディンガーの波動方程式(量子力学)によって支配され,波動方程式は粒子性と波動性を同時に説明しうる物理学の基礎式になっているというわけですが,このことを少々哲学でシンボリックに書けば,

  量子力学→古典力学  (h→0)

と表現することができます.

 そして,波動方程式のさまざまの解が徹底的に調べられ,電子の存在確率が計算されるに及んで,原子による光の吸収・発光のスペクトル,化学結合など物質の仕組みに関わる現象,さまざまな物質の電気的・磁気的・光学的・機械的性質などを明確かつ十分満足に説明できるようになったのです.物質の性質は波動方程式にすべて内包されているといっても過言ではなく,電子は理解しにくい二重人格者なのです.

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